石井清吉 奄美徳之島の救世主 子孫来島 大島地区高校社会科研修会

11月22日大島地区高等学校社会科教師の研修会で70分講演でした。徳之島を立ち位置とした自然、歴史、戦時中、米軍統治多くを知ってもらいました。米軍統治下の奄美人の 「ナワ行き」「人身売買」復帰運動成し遂げた後の復帰にまつわる沖縄在住奄美人の苦悩差別人身売買まで。

昨日 石井清吉ルーツ訪ねる 子孫 石井明男 親子とお会いしました。大島地区高校社会科研修会に同席の許可をいただきました。

石井清吉さんは母間、亀津、浅間で石井塾を開き三方法運動の精神 自由民権運動を説いています。

当時のエピソード

一八九〇(明治二三)年 亀津村へ転居

  • 農家扇動として警察へ連行
  • 橋口警部補の尋問にてきぱ、きと答えしかも「君たちは」と農家の状況を知らないと指摘。
  • 三方法を説き、農家の生活改善と共に、負債償却は裁判の問題である警察は干渉できない問題、・・警察も丁重にお茶を出した。
  • 石井氏渡島して「三法方の精神」を普及し「人間は平等なり、島民は内地人に対して余りに卑屈なり。内地人島民対等の地位に於いて応対すべきものなり。西欧諸国の例は斯くかくなり。近く実施される帝国憲法の精神も黙々なり」と、あたかも小学校の先生が教えるがごとく懇々と「四民平等論」を説いて島民の覚醒を促し、内地人の跋扈(ばっこ)を掣肘(せいちゅう)したるを以て、ここに初めて島民伸長の機運を生み、この思想、年と共に発展し、同時にかの不当負債揉み消しは、島民経済振興の端を開き、「大島文化」の基礎を作るを得たり。これ実に「三法方」の恵沢なり。(浅松宮啓「大島の恩人」月刊誌「奄美大島」1928~29)
  • 浅間・岡前集落
  • 十数家族を率いて種子島へ入植
  • 1924(大正13)年5月3日 67歳
  • 弟の清八が看取り遺骨を三重県小俣町生家

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