2006年 12月 11日 (月)
カムィヤキ陶器窯跡
第2支群の看板
傾斜を利用した登り窯、下に灰原があり、破片が散乱している。
第10支群は急な坂で、足が丈夫でないと下りていけない
イボイモリ 奄美大島、徳之島、沖縄本島に分布、(沖縄県天然記念物)
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今日友人、こと「暇人」氏にホームページを作っていただいた。本日の書き出しは初の試みである。ちょっと興奮している。
私はこれまで転勤族で平成の時代になって徳之島に帰って来た。沖永良部で見た33年忌の模様は墓まで唄を流しながら、一斗缶をたたいて向かった。そして墓で歌い踊りお別れをした。島に育ち、島の風習、田植え唄、踊り、九月九日(重用の節句)等伝統文化の継承活動をしたり奄美を旅しての感動を多くの人に知ってもらい、島唄の良さやその意味を語りたい、という思いが強くなる自分に最近気付いた。ため込んでいた資料、思いを少しずつ出していきたいと思います。身も心もスリムにするために。
9年前カムィヤキ古窯の第一発見者である四本延宏氏と12支群を歩いたことがある。昨日12月10日奄美ミュージアムの事業で久しぶりに歩いた。
「登り窯は1400℃、煙突の蓋をすることで赤い(酸化鉄)土中の酸素を奪い(還元)鉄分の硬い須恵器となる。韓国の言葉で須恵器は鉄を指すそうだ。国有林にあったためカムィヤキは守られていた。300年間九州南部から先島諸島まで流通し、その上に琉球王国は存在した。カムィヤキが王国誕生に関わったのではないだろうか
尾根づたいの左右の傾斜に登り窯がある。カネクは海岸の意味。戦時中の塹壕は散兵壕と言われた。自然はミュージアムである・・季節ごとに展示替えをする。木炭の破片(カーボン)で木の質や年代がわかる。カムィヤキは椎木が多かった、マツはなかった、次に榊が多かった。花崗岩が海抜170m上にある、ここにため池がある。水を蓄えるには石灰岩ではだめ。戦争時の縦横にある塹壕から縄文時代の土器が出る、これは市来式土器。」
話は続く・・。帰りにイボイモリが2匹交通事故、ぺしゃんこになっていた。
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