武州丸取り組みから13年経過しました。当時のブログ(現在の前)を見てみますと
2006年 12月 11日 (月)
戦跡めぐり 学童疎開船武洲丸
遺族会政野富夫さん(74)名城秀時さん(94)のお話
平和を守る誓い新たに記念撮影をしました。
大和城山登山,この真下に高射砲台の跡がある。
松村省三氏(元教員)戦時中の司令部,慰安所跡など説明
昨年の徳之島遺跡・史跡巡りに引き続き、今年は国内外の北朝鮮の脅威、(ミサイル、核開発)そして「目には目を」非核三原則も危ぶまれる状況の中で「平和学習、戦跡めぐりを計画した。
まず亀津を出発し、さつまの琉球侵攻時における「秋徳湊の戦い」の看板をバス車中から見ながら、語り部として学童疎開船武洲丸遺族会会長 政野富夫さん、名城秀時さんから「昭和19年9月25日トカラ列島中之島沖において、米潜水艦の攻撃で148人が死亡したことが軍の機密事項として隠され、死亡届も昭和40年代までかかった。」遺族の無念さをお聞きしました。
「沖縄の疎開船対馬丸は手厚く戦後補償され、会館も建てられ今後も語り伝えられていくだろう。しかし、私たちは自分たちで33回忌に慰霊碑を建てた。武洲丸の遭難者の遺品は当時県議会会館前に集められた、と聞くがその所在は今も不明である。私たちは老いていく、花を手向けることも今後難しい。願わくば徳之島町で慰霊碑を管理していただければ、と思っている。無駄死に、と思ったりもしたが33回忌のあの時から今日、62年目皆さんのお顔を見て彼らの死がこれからの平和を願う思いに通ずればありがたい、無駄死にではなかった、と思いたい。」
今年、政府は初めて武州丸の遺族を洋上慰霊祭に案内した。しかし遺族は年老いて、政野さんただ一人の参加であった。
天城浅間の旧陸軍飛行場(知覧出発した特攻兵の中継基地)、当部では松村省三さんから奄美守備隊「独立混成第64旅団 鬼塚部隊」の話を聞いた。他に西郷隆盛の上陸地、オキナワウラジロガシの板根を見た。戦跡巡り参加者38名。