疎開船武州丸の操舵手 澤津橋勉さん逝去の報に接す・・・

先日、澤津橋勉さんの奥様からご逝去の電話をいただいた。4月25日に亡くなったとのこと。謹んでお悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈りします、同時に澤津橋さんの平和のメッセージをこれからも語り継ぐことをお約束します。

毎年9月25日の慰霊の日にはお電話をいただき、遺族や戦争のない平和祈願のことばを参列した人々に紹介した。

2008年5月22日丁度10年前に川辺の澤津橋勉さん宅を訪ねた。1944年9月25日 中の島沖で米潜水艦に轟沈され、徳之島の児童生徒、母親、祖父母 148名が亡くなった。当時澤津橋さんは操舵手として(16歳)戦時中敵潜水艦の魚雷攻撃を避けながらの航海をしていた。台湾から食料を積み船団を組んで貨物船としての役割を担っていた。古仁屋港で貨物を下ろして、疎開船として軍属や看護婦、疎開者を乗せて鹿児島へ向かった。夜9時に澤津橋さんは交代した。その直後2発の魚雷攻撃で武州丸は轟沈した。

「1000名を超す人が乗船していたと思う。」と証言した。「武州丸」の最期を知る生き証人が亡くなった。「戦争」お互いの正義がぶつかり合う。「戦争に正義なんてない」とイラク戦争帰還米兵が沖縄で語っていた。

「戦争を知らない子どもたち」の世代が戦争を語り継ぐことをしないと、「また来た道を戻る」恐れもある。「むしゃくしゃして、誰でもよかった!」新幹線での殺傷事件。秋葉原の事件を思い起こした。「物はなくても心のつながる社会」を回顧しつつ、今を生きたい。

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