スタディ登山 まず感じたことはトクノシマエビネが歩く通路にも見えるほど盗掘がない。アマミノクロウサギの糞があった。
倒木の上のコケにも糞があった、アマミテンナンショウを発見!ラッキーでした。
徳之島町出身者から発せられた知られざる「奄美日本復帰の第一声」
“奄美民族を救う道は本土復帰以外にない”と決意した亀津連合青年団長で、昭和22年(1947年)本土で復帰運動を興し、国際世論に訴えるために命がけの密航船で単身徳之島を脱出、宮崎から〝復帰運動を点火した〟人物がいる。
奇しくも前田長英と同じ年に亀津で生まれた〝爲山道則〟がその人である。
亀津尋常高等小学校から大志を抱き満州(中国東北部)に渡り満州鉄道入社、成績優秀ながら家が貧しく進学できない子弟を全国から集めていた難関満鉄育成学校に入学、満鉄高等学院に進むも繰り上げ卒業となり学徒出陣、終戦で復員後、向学心抑え難く大学入学するも先の見通し立たず帰島。
昭和21年(1946年)創立した亀津高等女学校の英語教師として着任。徳之島の学校教育で英語の授業は史上初めてであった。教師をしながら青年団活動を続け、亀津連合青年団長として島の民主化運動を牽引するも、祖国復帰を主張する青年団幹部に対する軍政府の迫害が激しくなり、昭和22年(1947年)、密航船で鹿児島県庁に行き、復帰運動のことを相談しようと奄美出身で後の副知事(保岡武久)を訪ねるも面会を拒否、知事も連合国軍総司令部(GHQ)に気遣い消極的だった。母県の鹿児島県頼むに足らずと分かり失望・落胆して、出身者の多い宮崎市大島町に行く。
そこで出身者の協力を得て大島町青年団をはじめ復帰運動の組織づくりに奔走、本土で初めて街頭での募金や署名活動の復帰運動を公然と展開する。
昭和25年(1950年)2月17日、宮崎県奄美大島青年団が全国の奄美同胞に「青年よ立ち上がれ」と呼びかけた檄文は、奄美の復帰運動の〝点火剤 〟 となった。この呼びかけに応え、郷土では奄美大島連合青年団が祖国復帰を民族運動として位置づけ、歴史的意義をもつ運動に乗り出した。
彼が奄美の日本復帰運動で果たした先駆的役割は、歴史上燦然と輝いている。そのような先人達から継承している奄美の若い血潮が、これからの島に、日本にどのような波を起こせるのか期待しているのは私だけであろうか。
彼はその後宮崎県庁に就職、退職後は県日中友好協会、社会福祉事業などへ大きく貢献し、厚生大臣賞を受賞している。
このように泉芳朗も徳之島出身者であり、その先駆者がいたことを忘れてはなりません。
母間騒動、犬田布騒動で一揆を起こすほどのしまんちゅの熱はその後も核燃料再処理工場反対、米軍基地移設反対と繋がっています。
さて、防衛費の果てしない増加 トマホークなど敵基地攻撃能力、奄美大島に配備されたハイマースは1発2100万円、連続8発?撃てば 国家予算が共生の時代でなく滅亡時代に使われる。
離島奪還の前にノアの箱船は有るのか? 出るのか?
2~3日定期船が来なければ島は食料不足に陥る 今度は中国人が離島に「満州国」を作るー
こんな時代が来ないように友好国として国交を平和に導くのが政治家だろう。
戦争を知らないゲーム世代の国会議員が平和を簡単にリセットできると勘違いしている。
「数人の学校の先生から、自分の子供を、自分の赴任先の小規模校に通わせたくないので、自分は亀津、亀徳に家を借りた、とおっしゃってました。
ちょっと寂しい気持ちになりましたが、それが現実なんだなーと。
自分の子供を通わせたくなる学校の魅力化も、小規模校には必要。その魅力が何か?それをどうやって発信するかも、課題ですね。」
知人の生の声です。しかしA小学校のM先生家族は地域に住み、長男は6年生、次男3年生 夫もB小学校の先生ですが、バレーボールに三味線(私の教室に親子3人) 釣り あらゆる活動を先頭に立って頑張っています。
小規模校をマイナスイメージで見る教師とプラス思考の先生、決められませんが人それぞれですね。
戦争の犠牲者はいつも子ども、女性。高齢者であること。足手まとい、口減らし(軍人の食糧確保)このようなことを過去の歴史から語った。
本日、手々小中学校職員研修講師として参加。人権侵害の最たるものは戦争。この視点で世界、国内情勢を示唆、先生方が時事問題を危機感をもってとらえ、子どもたちと向き合うこと。国防と自営隊、離島奪還(米軍・自衛隊)と民衆の避難(行政が担当?)先の戦争で沖縄が地上戦を強いられたことが南西諸島で訓練されていること。など意見交換した。世界自然遺産と自己肯定感、誇り、など。
ふるさと留学生を受け入れているが、地元の子どもは0だそうだ!びっくり!教員と留学生のみ。寮を作って子どもたちを世話するなどしないと「持続可能」な制度とは言えない。里親は1軒だけだそうだ。学校存続は地域存続の意識で3万+35000円では里親になる人はいないだろう。よその子を責任もって育てるのだ。
鹿児島市在住の吉見文一さん(81)と連絡を取った。南海日日新聞掲載の写真を平和教育で使わせていただきたい旨の件で。
南海日日の紹介で電話連絡の了解を得て、さっそく電話した。
「平和教育の資料として学校 児童生徒へ提示させてもらいたい」
快諾を得て、南海日日より写真が送られてきた。
パワーポイントに取り込み 28日手々小中学校研修から使わせていただく。
寄せ書きには 久原秀雄さん(徳之島町元教育長?)なども。翌日の新聞では 父親からの遺言も掲載された。
戦争で失われた親子の絆、敵味方失うものはあっても得られものはない。「命」は何物にも代えがたいものであることを知ってほしい。ゲーム感覚で戦場を見ている人たち、命令指示している権力者たち、彼らは多くの富を得るだろう。先の戦争で日本人は戦争を知ったはずだ。しかし今また、防衛費 軍事費が国民の負担を強いる中で増大する予告がTVから流れる。「ウクライナのようになっていいのか!」危機意識を煽りながらだ。国際交流、若者を中心に友好的な外交に金をかけてほしい。戦争で利をえる者、失う者(命さえ)は為政者と民衆の関係であり、金持ちと貧乏人の関係ともいえる。
誰のための戦争か?考えよう。グレタ・トゥーンベリさんは「子供を愛していると言いながら 私たちに大きな課題を残している」と環境問題でダメな大人を叱咤する。未来は子どもたちのものであるにもかかわらず、目先の利益にむらがる。さらに「動物の群れは危機感を持つとそのリーダーが危険を察知して知らせる。私はその役割を担っている・・・」と。
南西諸島は第二次世界大戦でも捨て石だった。沖縄は地上戦を強いられ、本土防衛の最前線として住民を巻き込む(住民はガマから追い出され)修羅場、日米沖縄県民約20万人が戦死した。今回の訓練も本土防衛のためであり、最前線で島の人はすでに仮想敵国の側に支配され、住民は「盾」としてまさしく沖縄の戦時中さながらの状況におかれるだろう。その間に軍部はどこかで和解し、南西諸島の住民は名誉の戦死、靖国に祀られる。
海から水陸両用車がやってきて銃弾が飛び交うとき、シマンチュは山中に逃げるか砲弾で死ぬか。
日米の合同訓練に住民の避難も入れてほしいものだ。そのとき私たちは竹やりで応戦?または収容所に入ったままなのか。
守ってくれとは言わないが戦争ごっこで住民を安心させれると思うほど、シマンチュは愚かでないはずだ。
外交の失敗を離島に投げてほしくない、国際交流こそが平和への道しるべであり、貧しいものが戦場に送られる(ロシアは金と家を作る土地提供、囚人もおとがめなしで戦場へ)イラク戦争でも奨学金欲しさでアメリカの州兵が戦場に出た。今、アメリカの傭兵部隊は金もうけにウクライナへ出稼ぎ、軍需産業は好景気だ。おかしい、と思わないといけない。誰のための戦争なのか・・・。