武州丸慰霊の夕べ2024

武州丸慰霊 平和の夕べ       武州丸と平和を考える会 代表 幸多勝弘

武州丸撃沈から80年

1944(昭和19)年9月25日 夜9時 徳之島から疎開する154名は潜水艦 バーベル号の魚雷攻撃によって児童生徒77名を含む148名が帰らぬ人となりました。

米軍が沖縄に上陸し、南西諸島を経て本土攻撃へと近づく1944年9月25日。奄美・徳之島の近海では多くの疎開船対馬丸をはじめとして、多くの貨物船が撃沈されました。しかしこのことは軍事機密とされ、かん口令がしかれていました。

政府は南西諸島から1944年7月に10万人の疎開を閣議決定しました。

学童疎開の主な理由は、将来の日本国を担う小国民とされていたが、実際は奄美守備隊約7000名と飛行場整備のための当時の大島中学校生徒、与論永良部から徴用された人々 およそ11500人の食糧確保であり、戦争時の足手まといとされる老人、子供、女性を島から出すことでした。

都会に行けば 汽車に乗れる、冬は雪合戦もできる 本土への疎開は子どもたちにとっては 遠足や修学旅行のように思えたのです。しかし、制空権も制海権も終戦の1年前からすでにアメリカが掌握し、武州丸が撃沈された3か月前の1944年6月29日には亀徳沖では沖縄へ向かう 輸送船「富山丸」が3700余名の死者を出しており、疎開は死を覚悟しての旅だちでした。

戦時中における離島からの避難は終戦の1年前から絶望的だったのです。

このように考えると、戦争が始まったとき、鹿児島の大隅海峡が特定海域として今でも自由に中国籍の外国船が通過できるのですから、国民保護訓練で離島からの脱出、避難は不可能でしょう。

再び先の大戦と同じく南西諸島は本土防衛のための捨て石とならざるを得ません。

 

世界情勢をみてみますと 今は、世界中が「戦前」という危機に立たされています。

世界の終末時計は零時45分前からスタートして冷戦後1991年は17分 昨年今年90秒前です。

ロシアのウクライナ侵攻から2年を過ぎ、子どもを含め多くの犠牲者を出しています。

ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエルとパレスチナの戦争はガザ地区でのジェノサイドの様相を呈しています。餓死によって命を失う子どもたちがいます。

時を同じくして日米合同訓練、2023年11月7日 徳之島で訓練~タッチアンドゴー パラシュート降下訓練などは 戦争前夜の様相です。

 

「戦争は人の心の中で起きます、違いを認めない差別感情や貧富の格差です、私たちは心の中に平和の砦を築かなければならない」

日本全土の軍事化が進行していますが「武力によって現状を変更する」という事は、国際間で平和外交を推し進め、友好的に異文化を理解し、若者が交流することで恨みや差別は解消されるはずです。

「過去に目を閉ざすものは現在に対しても盲目である」「武力で平和は築けない!」

国民が独裁政権を許さない、民主主義国家を目指し、自国ファーストに陥らないこと。

武州丸からのメッセージ 生きていれば、0歳児の幼児は80歳でした。77名の子ども含む148名の御霊に誓いましょう。

「私たちは子どもたちの未来に、平和で夢と希望の持てる社会をつなぎます。」

2024年9月21日

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