北海道立命館慶祥高校修学旅行 寄る辺歓迎の宴

修学旅行は海外旅行✈️👜だがコロナ禍のため世界自然遺産の奄美大島、徳之島となったそうだ。三味線太鼓で楽しい歓迎の宴ができた。ソーラン節 シマンチュの宝を歌い、うぎ節、ワイド節、六調踊る、大変元気な生徒たちでしっかり者、教員の引率なくても自律心をもった子たちのイメージでした。

16年前のブログが探せた!イボイモリも!

2006年 12月 11日 (月)

カムィヤキ陶器窯跡

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第2支群の看板
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傾斜を利用した登り窯、下に灰原があり、破片が散乱している。
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第10支群は急な坂で、足が丈夫でないと下りていけない
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イボイモリ 奄美大島、徳之島、沖縄本島に分布、(沖縄県天然記念物)

今日友人、こと「暇人」氏にホームページを作っていただいた。本日の書き出しは初の試みである。ちょっと興奮している。
私はこれまで転勤族で平成の時代になって徳之島に帰って来た。沖永良部で見た33年忌の模様は墓まで唄を流しながら、一斗缶をたたいて向かった。そして墓で歌い踊りお別れをした。島に育ち、島の風習、田植え唄、踊り、九月九日(重用の節句)等伝統文化の継承活動をしたり奄美を旅しての感動を多くの人に知ってもらい、島唄の良さやその意味を語りたい、という思いが強くなる自分に最近気付いた。ため込んでいた資料、思いを少しずつ出していきたいと思います。身も心もスリムにするために。
9年前カムィヤキ古窯の第一発見者である四本延宏氏と12支群を歩いたことがある。昨日12月10日奄美ミュージアムの事業で久しぶりに歩いた。
「登り窯は1400℃、煙突の蓋をすることで赤い(酸化鉄)土中の酸素を奪い(還元)鉄分の硬い須恵器となる。韓国の言葉で須恵器は鉄を指すそうだ。国有林にあったためカムィヤキは守られていた。300年間九州南部から先島諸島まで流通し、その上に琉球王国は存在した。カムィヤキが王国誕生に関わったのではないだろうか
尾根づたいの左右の傾斜に登り窯がある。カネクは海岸の意味。戦時中の塹壕は散兵壕と言われた。自然はミュージアムである・・季節ごとに展示替えをする。木炭の破片(カーボン)で木の質や年代がわかる。カムィヤキは椎木が多かった、マツはなかった、次に榊が多かった。花崗岩が海抜170m上にある、ここにため池がある。水を蓄えるには石灰岩ではだめ。戦争時の縦横にある塹壕から縄文時代の土器が出る、これは市来式土器。」
話は続く・・。帰りにイボイモリが2匹交通事故、ぺしゃんこになっていた。

徳之島町 新庁舎

まだ工事中の感じで落ち着かない。正面玄関は今年度中に旧役場を壊して駐車場が整備されるそうだ。今は消防組合側から入っていく。エレベーターもあって便利だと思う。乞うご期待!ですね。

山田川上流に大瀬川水系砂防ダムがある

大雨による河川の増水のため樹木伐採を要望した。併せて上流の砂防ダムの耐久調査が入ったため立ち合いを要請され、説明を受けた。1ケ月ほどかけてダムのボーリング4か所で強度を測定。ガジュマルが上部の境目に生えて木根が伸びコンクリートが破損個所や石ころの落下で滝壺状態に水圧で掘削された個所などがあった。また、土砂が満杯状態なので除去することになる。いずれにしても狭く人が入らない場所だ。その後、下流の伐採も始まる。砂防ダムも1976年から半世紀たとうとしている。補強など対策が必要だろうと説明を受けた。

あまぎ学

9月22日 天城町 北中学校

子どもたちの関心は下原遺跡だった。1万3800年前の隆帯文土器や2万4千年前の生活痕跡があった。

AT火山灰層 (姶良カルデラの噴火)から石器があったことと重ねると3万年前人類が徳之島には住んでいた。ここはドリーネといわれドーム場になっていたが風化によって天井が落ち込んだ所。人骨も発掘された。

あまぎ学は自分たちの生まれたところ古代の遺跡にタイムスリップし、現代とを結び更には戦争と平和を考えるアイデンティティ学、自己肯定感を得るにふさわしい実践学だ。

初めてのボッチャ

初めてのボッチャでした❗3時から止むことなく4時半まで継続、熱中して感想は「楽しい、難しいけどチームで勝ったり負けたり 続けたい。今度いつするの?」
第4日曜日3時から定期的に実施を確認しました。
参加をお待ちしております。
94歳作山キヨさん、93歳幸田隆久さんも参加して楽しみました。

因みに上の点数は白のジャックボールに近いのは青ですから赤が多く見えますが 1対0
青の1ポイントです。