2015年 8月 31日 (月)
母間騒動 職員研修に参加
28日 母間小学校の職員研修に参加した。「母間騒動について」語った。その時代背景から薩摩藩の圧政の中で轟木に飛び地 共有田(約20町歩)を持つ母間村民。
根っからの正直者で信頼される掟役 喜久山は田地横目の上納覚え、供出米の量が豊作時の1.35倍であることに愕然とし意義を申し出る。しかし門前払いしようとし、さらに非を糾せ!とせまる喜久山に入牢を命じた。喜久山救出に用意周到な母間村民の10日におよぶ代官所襲撃準備。630余名の一揆。これは薩摩藩最大の一揆であった。しかし薩摩本国でも現代の鹿児島県でも「県史」に登場しない。なぜなのか?為政者側の論理と歴史観。
昨年末やっと母間騒動の碑が建立されたが、2世紀の間母間村民が代官にたてついた不届き者、不埒とされてきた歴史を忘れてはならないし、検証を要する。母間正直の碑文から読み取れる「事あるときは地区を挙げて難に当たり事を処す積極性と情熱」。この文言が母間村民に許された「語り継ぎ」であったと私は思っている。
来年は母間騒動(1816)から200年である。
抵抗の歴史のDNAが犬田布騒動で語られるが、あの「騒動」においてでさえ代官所がすぐ母間村民の動向や鉄砲に敏感になったことは仲為日記からも読み取れる。
今こそ、「真実は勝つ、悪政を糾せ!」と叫んだ喜久山の想いを世に出さなくてはならない。
令和の時代、7年前私は「悪政、圧政に立ち向かう民衆の正義」に、今の時代「命を張ってまでやるひとがいるのか」と思っていた。しかし、世界ではミャンマーの軍事政権による民衆虐殺やロシア プーチン、北朝鮮など未だに独善、独裁者は絶えることがない。その中で、家族・国家の為に命を張っている人がいる。
時代は繰り返される、だから「ヒロシマ・ナガサキ、疎開船武州丸の平和の祭典は続けなければ、また、元来た道に舞い戻る可能性がある」ということを再認識した。