天城町松原地区 岡前地区 深夜に及ぶにもかかわらず青少年から高齢者まで命のタスキリレーは
真っ赤なたいまつ、炎と燃えて続いた。
2010年1月27日、正午のニュースで「普天間飛行場の米軍基地移設 徳之島を候補地」として鳩山首相が5年以内をめどに、というニュースが流れた。
朝日新聞に報道された日だ。当日、午後から私は徳之島三町の人権同和教育研究会報告会に会長として出席だった。急遽、反対決議分を昼食も返上して書き上げ会の終了とともに教職員の参加者へ配布し「これまでも奄美は石油備蓄基地、核燃料再処理工場候補などと企業・政府の思惑をはねのけた。世界自然遺産を目指す島の自然と平和のために立ち上がろう。徳之島の薩摩藩政時代からの圧政に負けぬDNAは今もある!」と訴えた。更に即、その夜反対の集会を徳之島労働金庫2回会場を借りて実施。基地反対の(狼煙)のろしを挙げた。私は公務員の現職だがあえて、参加者の推薦で事務局長を受けた。会長は民間から椛山幸栄さん。早速、三町に及ぶネットワークづくりをはじめ、それまで徳之島の自然歴史のフィールドワークでつながっている仲間たちと反対の集会へ。革新政権として期待した「民主党」に裏切られ、当時野党の自民党の応援を得た。現在の東京都知事小池百合子さんも来島。登壇する際の女性議員がスカートか否かまで綿密に話し合い対処し、天城町BGグラウンドで開催。
その熱気を再度、明日から再発信していきたい。写真を添えて 乞うご期待!
風化させてはいけない、2006年以来伝え続けてきた学童疎開船「武州丸」。ゼロ歳児から12歳までの学童77人の魂は今も海底で眠りにつけず、今の国際情勢を懸念・心配していることだろう。
一触即発とまではいかないが、未だに引きずる韓国・中国の太平洋戦争時の怨念。心を開いて8・6,8・9原子爆弾の悲劇を平和運動として展開する日本人。再び戦場に子どもを送るな!の思いがある。
遺族が高齢化して遺族会が解散する。原子爆弾の健康手帳を持つ人の平均年齢が83歳。
求められているのは遺族から聞き取りをして次世代へ繋ぐ若者たちの行動だ。
誰かがやればいい、ではないはず。聞いて知って、悲喜を共有し、伝える行動がほしい。「戦争を知らない子どもたち」が流行った頃、なぜかこの唄が遠い過去のことだと思っていた。しかし今もそれは同じで何かをしなければ、伝えなければ50年前の自分と変わらない。
「過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる」ワイゼッカードイツ大統領の言葉が35年前と同じく私の耳に聞こえる。
「戦争と平和」子ども達は知りたがっている、「なぜ戦争は起きたの?ヒロシマ・ナダサキ、沖縄戦。徳之島では?」それを伝えるのは大人の責務。しなければ罪でさえある。