養蚕技術の伝達技師として徳之島へ

奄美市浦上農業試験場で養蚕技術をマスターして与論島へ 与論島の養蚕衰退のため徳之島 当時東天城村で養蚕指導に従事 徳之島町町制施工後、花徳支所で勤務

忠義さんは昭和8年生まれです

和泊町喜美留出身、和泊中学校勤務の7年間私はご兄弟と親しくさせていただきました

大島地区ソフトテニス大会に参加する賢裕さんと会場で会いました

縁 あって40年ぶりにお兄さんと私は知り合えたのです。徳之島の養蚕指導技術者 歴史を作った人です

♪おまえ蚕(こ)を飼え 紬織れ♪徳之島小唄と養蚕業が盛んであった、ことが理解できますね。シマの桑の木の多いこと。温故知新です。

天城 北中学校1年生フイールドワーク

5月28日木曜日 天城町北中学校1年生フイールドワークを実施した。毎年の実施だが今回は徳之島町と伊仙町を中心に歴史自然研修を目的とした。梅雨時期 徳之島トンネルを降りていくとハブが輪禍に。

8時40分学校出発 最初に地球の歴史、地殻変動を学ぶために花徳海岸「ポットホール」。その出来方となぜ横向きに穴が?などを説明した。母間騒動、なごみの岬で富山丸・武州丸の平和学習。

伊仙町では検福の銀龍(鍾乳)洞、鍾乳石のでき方、種類。カムイヤキ(国の文化財指定)作り方や南方から東北まで交易の話。鹿浦小学校旧奉安殿では天皇皇后のご真影、教育勅語があり戦時体制の中で現人神としての天皇主権教育。メランジュではその出来方、大陸プレートへの海洋プレートの滑り込み、付加体など。犬田布騒動(同胞を見捨てない、見て見ぬふりしないシマンチュの正義感、命をと賭した救出と戦い)・・・時間がなく戦艦大和の話はバスの中で。

奄美の梅雨といったらイジュの花。白い花が真っ盛り・・・イジュの木のことを話しました。

もっと行きたいところがあったが時間調整で省略。黒潮の塔(戦時中)代官所跡、殿地墓、薩摩侵攻「秋徳の闘い」やトマチン遺跡(縄文時代)、面縄貝塚・・・。

4時帰校、生徒は真剣に聞いてくれました。思いはひとつ。「島を誇れるこどもたちに」

唐獅子 島の平和は終戦が3日遅ければ無かった

戦時中の証言の重みは、(今はもう遅いかもしれないが)記録にとっておくべきだ。

10年前の「3日後は徳之島攻撃だった・・」。私たちの人生はなぜか大きな見えない

力で左右されているようだ。

10数年前、天城中学校でこの話を生徒たちにしたとき担任の麻生先生が涙していた。

「もし、そうだったら子の子たちはここにいなかったんだね・・・」

政治家が、企業が私利私欲で莫大な儲けをするときは必ず犠牲者がいる。それは国民の税金であったり

戦争のような命に関わることであったり。パンデミックの時代は私たちにこれからの世界をどうすればいいのかを示唆している。「人間は助け合い、支えあうべきだ」と。

学びて思わざれば即ち暗し・・だ。

唐獅子 「南をむけば」

10年前の沖縄タイムスへの投稿「南をむけば」楽になれる。米軍基地の徳之島移設に抵抗した記録を振り返る。

普天間基地の危険をなくするよりも、新しく沖縄、辺野古に基地を作ろうとする政府。軟弱な地盤に莫大な予算を投入。10年経って情勢は変わる。

今、国家予算はパンデミック、新型コロナウイルス対策へ向けられる。世界の覇権争いをする米中に襲い掛かるウイルス。人類が生き残るかどうかに金・物が使われるべきだと警鐘を発する。

「沖縄・奄美(キョウデージマ)」医療困難へき地離島の水際対策をしっかりとしたい。危機感をもって競うより共生・協調・共感・・・共に生きる「未来への道しるべ」(薩摩侵攻400年シンポジウム)を模索したい。

闘牛文化の歴史

闘牛をその本能と興行に分けて歴史を見ると

鳥獣戯画国宝にも8世紀ごろから京都で角合わせをする牛が描かれている。

また農耕牛として見ると、河原で農耕の疲れをいやしながら牛を浴びせているが

子どもたちは角合わせをさせて楽しんだと聞く。

薩摩藩制時代、代官が奄美島の娯楽を知って(8月15日、9月9日など遊興日)特別席を

設けたりして観戦する様は名越左源太「南島雑話の世界」からも見えるし、「徳之島事情」

の挿絵でもそうだ。このころは入場料は取らず、勝った「名誉」であった。前原口説も一族、集落の誇りが歌われている。

戦後、各集落の広場で幼いころ角合わせを見たものだ。勝ち負けでなく、楽しみだった。

昭和34,5  年ごろは道のわきはトタンで闘牛場を見せまいと覆い入場料を取っていた。子どもたちは隠れて応援団に扮して入場していた。

今は小学生までは無料。

興行として成り立ったのは戦後1960年ごろからではないか。戦後10年たって生活のゆとりも出来たころ。その頃は豪農、大富豪と言われる人たちが自分の名前を「000牛」として戦わせた。名誉である。島の数え歌に今もある「得とらゆりも名とれよ死んだる後にも名は残る」である。

 

岡前小学校講師&矢沢永吉モニュメント

昨日は岡前小学校の校内職員研修「島の歴史・犬田布騒動」でした。冒頭、ハンセン病家族の賠償訴訟(熊本地裁 勝訴)について経緯と徳之島・奄美関係のことを話した。犬田布騒動の背景については琉球弧の歴史を併せて紹介、騒動と一揆について語った。

さて、その前に2016年6月23日松原漁港にやってきた「矢沢永吉シークレットライブ」記念モニュメントを確認したので写真を載せておきます。

徳之島三町人権・同和教育研究協議会

昨日徳之島三町人権・同和教育研究協議会の基礎講座に講師として参加した。

小・中・高校の教職員からなる研究団体です。勤務時間に開催され各学校から一人以上の参加。

会員の要望で「徳之島の歴史が知りたい」。その実現となったわけですが、歴史自然文化盛りだくさんのことを短時間で話すには無理もありましたが役1時間15分で提起し、質疑の時間となりました。

「犬田布騒動を子どもたちにどのように教えたらいいのか」「『薩摩対奄美』でなく、犬田布騒動の背景その後の解放に向けたヤンチュ自由解放と黒糖の自由売買など尽力した薩摩の元家老 大島島司 新納忠三、石井清吉について語った。歴史の奥深さ隆帯文土器発見から近世・近代の歴史は数時間で語れるものではないといううことも。

熊本城の今

崩れしままの石垣に、と歌われる古城を思い出す。武者返しなど昭和35年に再建された熊本城ですが大型クレーン、番号を付された大きな石が何時になったら元に戻るのか。天守閣そして数十年かけてすべての石垣が復元されるまで今回の地震を教訓に私たちは何をどうすればいいのか。明治9年に神風連挙兵本陣跡、廃刀令に反対した士族の乱の石碑がある(熊本護国神社)。また、熊本城から歴史を見れば薩摩は敵であり、西郷どんは歓迎されない。熊本城籠城家族の石碑がある。立ち位置を変えれば歴史を見る目も変わるのは当然のこと。1609年の奄美琉球侵攻以来、明治150周年をいろんな角度から見ることもしかり、全てを忘却の彼方に、ではご先祖様に申し訳ない。

熊本城と石垣、色づく銀杏もみじの木を見て歴史を感じ、季節を感じた。外国人、国内の観光客、保育園の子どもたちを見て続く平和を祈願した。