ふれあい農園 ジャガイモ植え

ふれあい農園は 蔵越地区 永田高信氏の畑を借りました。無耕作地を青年部で草刈り福岡輝男さんが耕し、肥しを入れて畝をとり、11月24日 午前9時から永吉博昭さんの準備した種芋を植え付けました。参加した小学4年生 「自分もやってみたい!」と福岡さんの補助のもとで耕運機を操作、頼もしい体験学習でした。

武州丸慰霊の夕べ2024

武州丸慰霊 平和の夕べ       武州丸と平和を考える会 代表 幸多勝弘

武州丸撃沈から80年

1944(昭和19)年9月25日 夜9時 徳之島から疎開する154名は潜水艦 バーベル号の魚雷攻撃によって児童生徒77名を含む148名が帰らぬ人となりました。

米軍が沖縄に上陸し、南西諸島を経て本土攻撃へと近づく1944年9月25日。奄美・徳之島の近海では多くの疎開船対馬丸をはじめとして、多くの貨物船が撃沈されました。しかしこのことは軍事機密とされ、かん口令がしかれていました。

政府は南西諸島から1944年7月に10万人の疎開を閣議決定しました。

学童疎開の主な理由は、将来の日本国を担う小国民とされていたが、実際は奄美守備隊約7000名と飛行場整備のための当時の大島中学校生徒、与論永良部から徴用された人々 およそ11500人の食糧確保であり、戦争時の足手まといとされる老人、子供、女性を島から出すことでした。

都会に行けば 汽車に乗れる、冬は雪合戦もできる 本土への疎開は子どもたちにとっては 遠足や修学旅行のように思えたのです。しかし、制空権も制海権も終戦の1年前からすでにアメリカが掌握し、武州丸が撃沈された3か月前の1944年6月29日には亀徳沖では沖縄へ向かう 輸送船「富山丸」が3700余名の死者を出しており、疎開は死を覚悟しての旅だちでした。

戦時中における離島からの避難は終戦の1年前から絶望的だったのです。

このように考えると、戦争が始まったとき、鹿児島の大隅海峡が特定海域として今でも自由に中国籍の外国船が通過できるのですから、国民保護訓練で離島からの脱出、避難は不可能でしょう。

再び先の大戦と同じく南西諸島は本土防衛のための捨て石とならざるを得ません。

 

世界情勢をみてみますと 今は、世界中が「戦前」という危機に立たされています。

世界の終末時計は零時45分前からスタートして冷戦後1991年は17分 昨年今年90秒前です。

ロシアのウクライナ侵攻から2年を過ぎ、子どもを含め多くの犠牲者を出しています。

ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエルとパレスチナの戦争はガザ地区でのジェノサイドの様相を呈しています。餓死によって命を失う子どもたちがいます。

時を同じくして日米合同訓練、2023年11月7日 徳之島で訓練~タッチアンドゴー パラシュート降下訓練などは 戦争前夜の様相です。

 

「戦争は人の心の中で起きます、違いを認めない差別感情や貧富の格差です、私たちは心の中に平和の砦を築かなければならない」

日本全土の軍事化が進行していますが「武力によって現状を変更する」という事は、国際間で平和外交を推し進め、友好的に異文化を理解し、若者が交流することで恨みや差別は解消されるはずです。

「過去に目を閉ざすものは現在に対しても盲目である」「武力で平和は築けない!」

国民が独裁政権を許さない、民主主義国家を目指し、自国ファーストに陥らないこと。

武州丸からのメッセージ 生きていれば、0歳児の幼児は80歳でした。77名の子ども含む148名の御霊に誓いましょう。

「私たちは子どもたちの未来に、平和で夢と希望の持てる社会をつなぎます。」

2024年9月21日

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北区夏休み 合同ラジオ体操 新水かけ祭 盆踊り 終戦記念日「武州丸」

無病息災を願って「水かけ祭」実施。猛暑を吹き飛ばし、子どもたちの歓声が響く行事に大人 青年部も発する。仮面をつけて水鉄砲を受けていました。新規行事は大成功でした。その間 南日本新聞社、南海日々新聞の「武州丸」取材を受けた。

盆踊りは準備も2時間で終えた。しかしスコール性の大雨が通り 外部トランペットスピーカーがアウト!急遽 カラオケのスピーカーを引き出してセーフ!提灯はこれも雨でショート 58個が切れた。来年は市販のコードを早めに購入予定です。

青年部のかき氷、焼き鳥 大繁盛!

ウチナー戻りかご 徳之島バージョン 北区芸能大会 女性連フェスティバル

大和帰りのきゅら女をかごに乗せた 二人。自分の嫁さんにしようと 喧嘩始める。仲良くして かごのきゅら女が顔を見せると

ブス女 びっくりして逃げ回る。ウチナー徳州版「戻りかご」大喝采でした。

7月14日 徳之島町女性連フェスティバルでも発表 YouTube投稿しました

 

ユネスコスタディツアー2024 神之嶺国民学校 泉芳朗の日誌部分(沿革史)不明 残念!

2024年3月3日日曜日

77回目のバスフィールドワーク、全員ほぼシマンチュが参加した。これまでは教員、児童生徒が中心だった。「戦争は人の心の中に生まれる 心の中に平和のとりでを築こう!」復帰70周年から踏み出す今年 再度泉芳朗校長の神之嶺国民学校時代からスタートして面縄小学校、顕彰碑、芳朗の墓、面縄貝塚から生誕の地。

島を再発見!感動を伝えることだ。鍾乳洞も探検、天城岳登山入り口からマチャラの滝。

神之嶺小学校で泉芳朗の沿革史を金庫から出して校長が紹介。

ところが、「無いです!昭和18年泉芳朗が校長として赴任したころから20年度までの記録がすっぽり抜かれています!」

「町史編纂のため教育委員会に貸し出したのでは!?確認した方がいいですよ」

貴重な資料ですので学校に保管すべきですね。

 

 

70周年フィールドワーク 戦跡 徳之島生活指導研究会

11月19日 徳生研のメンバーで戦跡巡り。「終戦があと3日遅れたら徳之島は攻撃対象だった」。十数年前天城中学校の1年生に語ったとき麻生先生は涙ぐんでしまった。あとで涙の訳を聞いたら「3日の終戦遅れで、もしかしたら愛おしいこの子たちが居なかったかもしれないと思ったらたまらなかった」。戦前ともいえる国際、国内の情勢をもっと真剣に反戦・平和を子どもたちに伝えるべきだ。戦跡をめぐって思うことは「過去の事でない、今から起こりうるかもしれぬ悪い事態を回避する平和教育の実践」の大切さだ。外国を対岸の火事とせず、知って、語り、伝える営みをしてほしい。「戦争はいつのまにかやってきた。」戦争に巻き込まれたらラジオ・テレビNHKも国営放送で、マスメディアは戦争を鼓舞し若者は再び戦場に送られる。徳之島で上陸作戦の模様がTV放送された。島出身者(19歳)は「災害救助隊としての自衛隊に憧れて入隊した」という。自然災害で活躍する自衛隊に留まってほしいものだ。いざ戦争になれば領土奪還は自衛隊の責務だが島民の命を守ることは不可能だと、皆知っている。「平和外交」に力を入れるべき、若者はゲームの戦争ぐらいの知識しかない、負けたらリセットしてもう一回、というゲームのようなわけにはいかない。