10数年前発足した「クロウサギの里」定款の一部を紹介するが、殆ど全会員による活動は休眠状態だった。先日の14日 アガリマタイジュンで総会を持ち、役員を再度決定、その間亡くなった理事を補充した。小生も副理事長として継続することになった。会としては活動してないが、ユネスコ又は郷土研究会の一員としてこれまで動いてきたことの継承を「NPOクロウサギの里」としての再始動である。定期的な学習(情報交換)とシマを語り継ぐ文化(島口、島唄)をメインとする。アガリマタイジュン(茶屋)を起点とすることになる。乞う、ご期待!
Author Archives: katuhiro
母間騒動は用意周到な「農民一揆」7年前のブログ
母間騒動 職員研修に参加
28日 母間小学校の職員研修に参加した。「母間騒動について」語った。その時代背景から薩摩藩の圧政の中で轟木に飛び地 共有田(約20町歩)を持つ母間村民。
昨年末やっと母間騒動の碑が建立されたが、2世紀の間母間村民が代官にたてついた不届き者、不埒とされてきた歴史を忘れてはならないし、検証を要する。母間正直の碑文から読み取れる「事あるときは地区を挙げて難に当たり事を処す積極性と情熱」。この文言が母間村民に許された「語り継ぎ」であったと私は思っている。
来年は母間騒動(1816)から200年である。
抵抗の歴史のDNAが犬田布騒動で語られるが、あの「騒動」においてでさえ代官所がすぐ母間村民の動向や鉄砲に敏感になったことは仲為日記からも読み取れる。
今こそ、「真実は勝つ、悪政を糾せ!」と叫んだ喜久山の想いを世に出さなくてはならない。
2007年ある日 天城小学校職員案内 「島を知ろう!」旧ブログ
フィルドワーク~天城
天城小学校職員フィルドワーク研修「天城」
「地元を知ろう!」「足下の歴史自然」
13時出発!あいにくの雨・・まもなく晴れ。
「西郷隆盛上陸の地」(当時は大島三右衛門)が上陸した湾仁屋湊
「塩田発祥の地」公園の近くから松原まで空港滑走路は幅200m、4kmに及ぶ塩田であった。徳之「塩」工場を見学、平和通りを通って特攻平和記念碑へ。
松原銅山跡、ここは竹下登総理時代の一億創成資金で整備された。第一坑洞まで急な階段を上り、坑洞入り口へ。
「涼しい!」奥から冷気が4~5m手前までヒンヤリ。
コウモリが入り口付近で飛び交う。
「キャツ!ヘビ~」
坑洞をのぞき込んでいると後ろから「私が主だ!」と言わんばかりにスルスルと坑道へ這っていく。「ハブ!?」「いやヘビだろう」冷や汗も出て涼しさも格別。
子どもの頃の水遊び場、「滝下」
戸森の線刻画~島の石工によって、幾百年の歴史の中で刻まれてきた船の図。造船のための祈願、完成時は武運長久安全祈願がこの岩場で行われたのだろう。歴史のロマンをそれぞれ描く。
平成23年に完成するという「徳之島ダム」農業用ダム。九州農政局の職員に説明をお願いしました。徳之島の現在の耕地面積の半分に水を供給する。畑の手前までは国が、スプリンクラーは県営事業です。今回は時間の都合でここまで。まだまだある自然や歴史~。
今、思う 安住寺と一向宗、宗教弾圧
安住寺 薩摩藩政時代寺院
2014年に投稿した旧ブログを開けてみた。安住寺が学問発祥の地であること、さらに一向宗がなぜ迫害されたのか。「生きとし生けるものは皆平等である」とする宗教が封建時代の薩摩藩、為政者側から弾圧された。当たり前の考え思想が為政者側には邪魔になる。宗教さえも独善・独断に解釈される。ロシアの暴挙はなぜ起きたのか。今、戦後教師たちの「再び子どもたちを戦場に送らない」のスローガンに思いをはせる。
徳之島の最初の寺院「安住寺」
(薩摩藩の命により、創建された禅宗系の寺院)が井之川に建立されたのは、元文元年(1736)のことです。この時から島は禅宗に改められた。
延享元年(1744)に亀津村へ移転、明和7年(1770)伊仙村義名山へ。さらに天保3年(1832)再び亀津へ移された。
明治の代になってまもなく、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により安住寺(亀津)は廃寺となった。
この跡地に 山徳峯(やまとくほう)たち有志の手によって簡易学校となり、明治5年全島から子どもたちが集まり開校。
井之川から亀津そして伊仙義名山、さらに亀津へ移転し禅宗の布教が行われた。明治時代に徳之島発の学校が開校された安住寺跡が亀津小学校の丘、NTT敷地前にある。
禅宗が布教される前から薩摩藩が一向宗を弾圧したことは知られている。隠れ念仏 など「生きとし生けるものは皆平等である」とする宗教が封建時代の薩摩藩、為政者側から弾圧され14万人ともいわれる人たちが迫害を受けた。徳之島の宗門手札改めによる人口調査はまさに農民一揆を恐れる藩の姿であるが、これによって当時の人口を知ることが出来るというのも皮肉なことだ。南無阿弥陀仏・・・・。参考までに宗教の自由は明治9年からでした。
新年度、発進!くらこし公園にトイレを!5月号
令和3年度振り返って 北区自治会総会挨拶文
自治会を代表してごあいつを申し上げます。 2022年4月23日 総会
1 最近の世界情勢を見ますと、大変悲しく、ウクライナは「世界は子どもたちが殺されるのをみていて黙っている」と報道されるのは、とてもつらいです。
ロシアの独善、独裁者プーチンをなんとかできないものか。あのような人を元首としてきた国内の情勢を見たとき、過去に軍国主義・天皇主権とした日本の歴史とも似たような複雑な気持ちです。第三次世界大戦は避けなければなりません、まさに我慢比べです。
2 このような暗い中で、21日の新聞で伊仙町、天城町の「小中学校児童生徒の給食費無料化」は未来の子どもたちへのエール、保護者の負担を軽減する画期的なことでした。
義務教育は未来の子どもたちへの投資です。教育を無償で提供してきましたが給食だけは保護者負担とされ、教育条件整備は完全とは言えませんでした。
徳之島町の6億円ものふるさと納税は、その1部をまず未来の子どもたちへ充当し、活かされるべきで、子育て世代は何らかのアクションを起こすべきです。
さて、
3 令和3年度もコロナ禍の中にあって、大きな敬老会、町民体育祭他文化祭等も実施されず、これまでの当たり前の日常が奪われました。
また集落内では、故重岡会長さんほかこれまで地域の為に尽くされた方々が他界され、寂しい限りです。
4 私的なことですが、昨年の7月 深夜 妻がくも膜下出血で自衛隊ヘリで大島病院へ搬送されました、今回、離島の医療、ドクターヘリも夜間は飛ばないことや、県知事への申請 早くて4時間後ということを切実に体験しました。
9時間に及ぶ手術を経て、運よく回復し安堵しているところです。
その間、多くの方々に心配をかけ、また励まされて今日という日があります。
ありがとうございました。心から感謝申し上げます。
5 さて、この1年、子ども会から青年 壮年、女性連、高齢者クラブの活動は、コロナ禍のわずかな間をさがして着実に実施されました。
このあと事業報告でも詳しく映像で説明しますが(パワーポイントプレゼン)
(ボランティア清掃、ふれあい農園の芋植え、除草、収穫 子ども会、育成会、青年部、高齢者クラブ、女性連多くの人が参加しました。
子ども会の歓迎スポーツ大会、さらには青壮年、有志による旧公民館の作業や数回に及ぶ蔵越公園や通学路の除草、伐採。)
これらの活動はいずれも、参加していないと「見えません」、
そのため行事の「可視化、見える化」を図るため広報北区でお知らせしています。
広報によって各種団体の動き、繋がりが見えます。
6 本日は未来を創る青年子どもたちのために、自治会活動はどうあるべきか。
忌憚のない未来志向的なご意見、要望などお聞かせいただければ幸いです。
また、ご高齢にもかかわらず、顧問を引き続きお受けいただいた、幸田隆久さんにご出席いただき幸栄に思います。今後ともご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
こんにちの、コロナ禍にあっても、停滞せず、積極的に活動を実施してきた区民の皆様に感謝の意をお伝えして 挨拶とさせていただきます。
ブーゲンビリアにコデマリ、サクララン、クロトン 我が家の春です
天城岳登山
久しぶり晴れのドライブ
阿権で旧平家を伊仙町がリニューアルしたと聞いて訪ねた。まだ外観の塗装など未完成状況だが以前足を踏み入れるのに躊躇した家屋の裏側までぐるっと回って見学。豪農と言われ民衆の支配者的立場で島役人でもある平家はヤンチュ(債務奴隷)を相当数使い建築したであろう周囲の石垣や建物。
そこを出ると観光客がガジュマルと石垣の下で記念写真撮影、ここの江戸時代に積まれた石垣を島の人はどのように説明するのであろうか。観光客はどのように受け取るのだろうか。薩摩圧政時代、黒糖地獄といわれた時代背景と今の世を、どのように繋ぎ説明するのだろうか。
帰りに馬根で常たかゆきさんが孫を馬に乗せて散歩していたので、うれしくて車をストップ。記念撮影に応じてくれた。