6月29日 何の日?

六年前のブログから思う。
戦争が始まった今、自らに問いかけた「今は戦後?それとも戦前?」その答えがロシアという大国の侵略戦争という現実問題になった。
だが、私たちはTV慣れし、現実とは思えない参事を前に為す術もなく、日常の平和を「コロナ禍」で生きている。この平和な生活が一瞬にして消えた12.8や島の6.29、10.10、結果8.6.8.9の惨状を経て8.15を迎えた過去の学び直しが必然的にやって来たのだ。
 守ってきた「平和」の城がこんなに、もろかったのか、ということを知った。
戦後 日教組は教員のほぼ100%が加入し「子どもたちを再び戦場に送るな!」と「民主教育の実践」を訴えて来た。その加入率が20%を切る時代に、過去の日本の軍国主義、「戦争、侵略」を他国ロシアが行っている。「歴史は繰り返される」「過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる」、である。
2016年 6月 29日 (水)

富山丸 慰霊の日

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鹿浦小学校 旧奉安殿
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弾痕 人の命を狙った機銃掃射

NHK朝のラジオ番組で 「今日は何の日」というのがあるが。今日は1944年6月29日 7時30分頃 戦時中の奄美近海、徳之島 亀徳沖のわずか3kmで「輸送船 富山丸」が魚雷攻撃で轟沈した。3700余名の若者があっという間に海中に没し、海に飛び込み陸に向かって泳いだ人たちも、ガソリンが引火し、火の海で焼死。浜辺には200体もの兵士が打ち上げられ、砂浜で火葬された。なごみの岬。今日も暑い日になりそうだ。72年前の今頃 地獄と化した亀徳沖の悲惨な、悲痛なシマンチュの顔は、想像もできない。神の国日本が負けるはずがない。勇壮な船団が南下する光景に胸躍らせた人々が目の当たりにした船団の撃沈模様。奄美近海はすでに制空権、制海権を失っていた。にもかかわらずそれから1年以上過ぎた8月15日の終戦。沖縄も奄美も本土防衛の捨て石であったことがわかる。再びこどもたちを戦場に送らない!その思いが高齢化によって遠ざかっていく。ゲーム感覚のTV放映によって命の重たさが軽く、流される(放映)今は戦後なのか?それとも戦前?

馬毛島とラプコン《radar approach control》を考える

2010年の徳之島への米軍基地移設反対闘争の教訓から、伝えたい

《radar approach control》レーダー進入管制。 地上誘導着陸方式によるもので、空港監視レーダーと精測進入レーダーを用い、無線電話により操縦士に指示を与えて着陸させる。

嘉手納ラプコンは、嘉手納基地から半径90キロ、高さ6000メートルの空域と、久米島空港の半径55キロ、高さ1500メートルの空域の進入管制業務を嘉手納基地のレーダーで米軍が実施してきました。

那覇空港から離着陸する民間機は、嘉手納基地に離着陸する米軍機と航路が重なるため、約10キロの間、高度300メートルの低空で飛行するという「高度制限」を義務付けられています。

こうした米軍優先により、ニアミス(異常接近)の発生、低空飛行による乱気流発生時でのトラブルの可能性が指摘され、民間機の安全優先、燃料負担の軽減などから嘉手納ラプコンの早期返還が求められていました。

国土交通省は、返還後は地上と上空の管制を日本側で行うため、米軍機の飛行状況が早めに把握でき、米軍機の状況によっては高度制限せずにスムーズな着陸・上昇が可能としています。


変わらぬ米軍優先

嘉手納ラプコンの日本への返還は「空の主権回復」、民間航空の安全確保という点で前進です。

しかし全面返還ではありません。国土交通省も認めるように高度制限の“緩和”は、あくまで嘉手納基地や普天間基地を離着陸する米軍機の飛行計画が予定されていない場合です。米軍機の飛行や作戦計画に支障のない範囲が前提なのです。

馬毛島でのタッチアンドゴー、離着陸訓練は「ラプコン」という、空域の制限下で行われる。であれば種子島、屋久島方面から国内線はおのずと狭い空域しか運航できない。わが物顔で制空権をもって轟音を轟かせても文句は言えない。2010年まで那覇空港がわずか高度300mしか許されてなかったことを知っているのだろうか。

 

熊本城の今~孫の運動会 エイサー

昨年の夏は子や孫に「くも膜下出血」で心配かけた。コロナ禍のため奄美県病院まで来てもラインで語るだけ。手術後に会うこともかなわず熊本鹿児島へ帰った子や孫たちだった。その後の経過、元気な姿を見てもらいたいと熊本の運動会応援に合わせて行った。孫たちは二人ともばあばの姿をみたとたん、顔を真っ赤にして号泣、抱きついた。

花園小学校の運動会は各学年2種目の午前中実施。孫は開会宣言から、応援団など活躍。さらに驚いたのは なんと、熊本の地で エイサー「年中口説」が6年生の全体演技であった。沖縄の伝統芸能が全国に発信され、愛好者がいることを知る。

このような平和な日本とウクライナの現実を見たとき、今の時代、子や孫の時代、平和であってほしい、と強く願う。

6年前 「今は戦後か、戦前か?」東天城中 フィールドワークを顧みる

2016年 5月 19日 (木)

東天城中フィールドワーク

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南部は焦げ茶色、北部は黒い
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 恒例の東天城中学校1年生のフィールドワークの案内。5年目になるだろうか、取り組みに感謝である。オリエンテーションではエコツーリズムについて語った。自然環境と歴史、文化についての体験型観光母間騒動について母間正直と一体的な正義感が成した一揆であること、これまでタブーとされた「お上への抵抗の歴史」がやっと消え、記念碑が建立される時代になった。ちなみに今年は母間騒動200年の節目の年だ。当部のアガリマタイジュンやオキナワウラジロガシ周辺は観光客のために整備されていた。ただ悲しいかな清流の水たまりがあってハグロトンボが遊ぶ、水たまりは無残にも石が整然と敷き詰められてしまった。何かができるとき、何かが失われていく浅間陸軍飛行場滑走路跡や防空壕。犬田布騒動記念碑。民衆の団結、同胞を見捨てない命を賭しての抵抗。遠島中でも沖縄民謡踊りを習得して徳之島に琉球音楽を伝えた安寿珠。メランジュでは島の成り立ち、アマミノクロウサギと同様、1億年の時の流れの中で海底7000mから浮かび出たメランジュ。平和教育は写真を示しながら実施。鹿浦小学校の機銃掃射による旧奉安殿の弾丸痕跡。人が人を殺めようとした痕跡である。今の時代が戦後なのか、戦前であってほしくない。平和の構築を、敵対しないグローバルな平和共存を訴えた。

6年前の旧ブログから引き出している。
「今の時代が戦後か、戦前か?」と自らに問うのだが、世界の平和外交の失敗が浮き彫りになり、その背景にエネルギー、食糧問題が複雑にからみあい、一枚岩になれないもどかさがある。
時代は繰り返される、その予想、想定をするのが政治家であり、国民「私たち」である。
力による現状変更は許されない!もちろんだが、戦争犠牲者のウクライナ、ロシア兵も人間「命」。あまりにも映像で慣れてしまう自分が怖い。北朝鮮の拉致問題もかすんでしまう。マスコミも人道上の一人一人の「命」を強く、大事に取り扱うべきだ。悲惨なヒロシマ・ナガサキと同じようにTVは事実をつたえてほしい。今こそ平和教育の必要性を国民に訴えるべきで、「目には目を」の防衛の名の下で軍事予算の増だけを政府は言ううべきでない。平和外交「食料」「エネルギー」問題で世界中の共存を訴えたい。

闘牛に集う、旧友 「闘牛は文化だね!」

2015年 5月 4日 (月)

闘牛は文化だ!

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雄姿に期待が高まる!
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同級生!
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沖縄から応援に!
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子々孫々 思いは受け継がれる

「闘牛は文化だ!」
昭和35年生まれ「14歳の時に沖縄に移住した」、あれから40年!息子夫婦と奄美大島を観光した帰りに「同級生が闘牛大会でチャンピオン防衛だって、降りよう!」と下船した。
可愛い赤ちゃんを連れた新婚夫婦。
 4人の同級生の顔だ。あれから40年!同級生は「ジャイアン!」などとあだ名で呼び合う。ほほえましい!そしておばあちゃんは「ごちそうをファミリーで手分けして優勝祝いをしている」という。
知人友人親戚が勝ち祝いで押しかける。
 笑顔笑顔、そして笑顔。
幸福度世界一の、笑顔が満ちあふれている。これはその中にいないと感じられない。共有、共感すること。今の時代、都会にこんな場はありません。応援した人々が何人でも押しかけ飲んで食べて、そして一体感を持つことのできる「場」。
 「老若男女」という言葉、「老人と子どものふれあい」。実践する場が徳之島にはあります。思いを共有し連帯し、感動を共にする。また勝敗の結果を真摯に受け止める度量。
現代版「闘牛文化」だと思う。

 2022年5月20日
追加 関わること、悲喜を共有することが文化でしょう!一歩踏み出さないとわからない、見えない。文化とは長年の蓄積、それは有形無形いずれにしてもだ。「得とらゆりむ、名取れ」(利益よりも名を遺せ)古老たちは一族の名誉、絆を大事に富める人は闘牛を飼い、「00牛」と名前を前面に出して、共に闘った。闘牛大会は遠方(町をまたいで)ではヤドヤと言われる民家で世話になった。その一宿一飯の義理人情は子や孫までも繋がった。
単に「闘牛は文化」という訳ではない、その当時の環境(農耕文化とオス牛の役割=農畜併合)が醸し出したのが「闘牛文化」だ。方言が絶滅寸前だが、闘牛愛好者は「方言」という文化でも繋がっている。

クロウサギの里 再始動

10数年前発足した「クロウサギの里」定款の一部を紹介するが、殆ど全会員による活動は休眠状態だった。先日の14日 アガリマタイジュンで総会を持ち、役員を再度決定、その間亡くなった理事を補充した。小生も副理事長として継続することになった。会としては活動してないが、ユネスコ又は郷土研究会の一員としてこれまで動いてきたことの継承を「NPOクロウサギの里」としての再始動である。定期的な学習(情報交換)とシマを語り継ぐ文化(島口、島唄)をメインとする。アガリマタイジュン(茶屋)を起点とすることになる。乞う、ご期待!

母間騒動は用意周到な「農民一揆」7年前のブログ

2015年 8月 31日 (月)

母間騒動 職員研修に参加

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母間海岸
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母間小学校
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母間正直の碑
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母間騒動之碑

28日 母間小学校の職員研修に参加した。「母間騒動について」語った。その時代背景から薩摩藩の圧政の中で轟木に飛び地 共有田(約20町歩)を持つ母間村民。

 根っからの正直者で信頼される掟役 喜久山は田地横目の上納覚え、供出米の量が豊作時の1.35倍であることに愕然とし意義を申し出る。しかし門前払いしようとし、さらに非を糾せ!とせまる喜久山に入牢を命じた。喜久山救出に用意周到な母間村民の10日におよぶ代官所襲撃準備。630余名の一揆。これは薩摩藩最大の一揆であった。しかし薩摩本国でも現代の鹿児島県でも「県史」に登場しない。なぜなのか?為政者側の論理と歴史観。
昨年末やっと母間騒動の碑が建立されたが、2世紀の間母間村民が代官にたてついた不届き者、不埒とされてきた歴史を忘れてはならないし、検証を要する。母間正直の碑文から読み取れる「事あるときは地区を挙げて難に当たり事を処す積極性と情熱」。この文言が母間村民に許された「語り継ぎ」であったと私は思っている。
来年は母間騒動(1816)から200年である。
抵抗の歴史のDNAが犬田布騒動で語られるが、あの「騒動」においてでさえ代官所がすぐ母間村民の動向や鉄砲に敏感になったことは仲為日記からも読み取れる。
今こそ、「真実は勝つ、悪政を糾せ!」と叫んだ喜久山の想いを世に出さなくてはならない。
 令和の時代、7年前私は「悪政、圧政に立ち向かう民衆の正義」に、今の時代「命を張ってまでやるひとがいるのか」と思っていた。しかし、世界ではミャンマーの軍事政権による民衆虐殺やロシア プーチン、北朝鮮など未だに独善、独裁者は絶えることがない。その中で、家族・国家の為に命を張っている人がいる。
 時代は繰り返される、だから「ヒロシマ・ナガサキ、疎開船武州丸の平和の祭典は続けなければ、また、元来た道に舞い戻る可能性がある」ということを再認識した。

2007年ある日 天城小学校職員案内 「島を知ろう!」旧ブログ

2007年 8月 23日 (木)

フィルドワーク~天城

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線刻画 弓矢、帆船など・・
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三小中学校親睦グランドゴルフ
個人優勝じゃじゃ丸、団体天笑!
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「徳の塩」見学~松原銅山
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滝下~線刻画~徳之島ダム説明

天城小学校職員フィルドワーク研修「天城」
「地元を知ろう!」「足下の歴史自然」
13時出発!あいにくの雨・・まもなく晴れ。
「西郷隆盛上陸の地」(当時は大島三右衛門)が上陸した湾仁屋湊
「塩田発祥の地」公園の近くから松原まで空港滑走路は幅200m、4kmに及ぶ塩田であった。徳之「塩」工場を見学、平和通りを通って特攻平和記念碑へ。
松原銅山跡、ここは竹下登総理時代の一億創成資金で整備された。第一坑洞まで急な階段を上り、坑洞入り口へ。
「涼しい!」奥から冷気が4~5m手前までヒンヤリ。
コウモリが入り口付近で飛び交う。
「キャツ!ヘビ~」
坑洞をのぞき込んでいると後ろから「私が主だ!」と言わんばかりにスルスルと坑道へ這っていく。「ハブ!?」「いやヘビだろう」冷や汗も出て涼しさも格別。
子どもの頃の水遊び場、「滝下」
戸森の線刻画~島の石工によって、幾百年の歴史の中で刻まれてきた船の図。造船のための祈願、完成時は武運長久安全祈願がこの岩場で行われたのだろう。歴史のロマンをそれぞれ描く。
平成23年に完成するという「徳之島ダム」農業用ダム。九州農政局の職員に説明をお願いしました。徳之島の現在の耕地面積の半分に水を供給する。畑の手前までは国が、スプリンクラーは県営事業です。今回は時間の都合でここまで。まだまだある自然や歴史~。

今、思う 安住寺と一向宗、宗教弾圧

安住寺 薩摩藩政時代寺院

 

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正面の森は枕状溶岩でできており、安住寺の跡
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山徳峯 胸像 亀津小学校内
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亀津NTT前
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伊仙義名山神社

2014年に投稿した旧ブログを開けてみた。安住寺が学問発祥の地であること、さらに一向宗がなぜ迫害されたのか。「生きとし生けるものは皆平等である」とする宗教が封建時代の薩摩藩、為政者側から弾圧された。当たり前の考え思想が為政者側には邪魔になる。宗教さえも独善・独断に解釈される。ロシアの暴挙はなぜ起きたのか。今、戦後教師たちの「再び子どもたちを戦場に送らない」のスローガンに思いをはせる。

徳之島の最初の寺院「安住寺」
 (薩摩藩の命により、創建された禅宗系の寺院)が井之川に建立されたのは、元文元年(1736)のことです。この時から島は禅宗に改められた。
延享元年(1744)に亀津村へ移転、明和7年(1770)伊仙村義名山へ。さらに天保3年(1832)再び亀津へ移された。
明治の代になってまもなく、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により安住寺(亀津)は廃寺となった。
この跡地に 山徳峯(やまとくほう)たち有志の手によって簡易学校となり、明治5年全島から子どもたちが集まり開校。

井之川から亀津そして伊仙義名山、さらに亀津へ移転し禅宗の布教が行われた。明治時代に徳之島発の学校が開校された安住寺跡が亀津小学校の丘、NTT敷地前にある。
禅宗が布教される前から薩摩藩が一向宗を弾圧したことは知られている。隠れ念仏 など「生きとし生けるものは皆平等である」とする宗教が封建時代の薩摩藩、為政者側から弾圧され14万人ともいわれる人たちが迫害を受けた。徳之島の宗門手札改めによる人口調査はまさに農民一揆を恐れる藩の姿であるが、これによって当時の人口を知ることが出来るというのも皮肉なことだ。南無阿弥陀仏・・・・。参考までに宗教の自由は明治9年からでした。

新年度、発進!くらこし公園にトイレを!5月号

総務課へ要望書を出しました。「奄美振興特別予算枠」として考えてくれるそうだ。

「公園にトイレがない、このことをもっと地域が真剣に自分の事として考えていたら、もっと早く実現できたのでは、」と反省する。

災害に直面して、避難場所にトイレがないと気づいた。ならここ公園で遊ぶ子供たちは不便を感じなかっただろうか。というよりここで遊ぶこどもらを見たことがなかった。そうなんだ、トイレのない遊園地公園って、都会では考えられないのだ。すべりだい、ブランコもあるのに、子ども目線で見ていなかったのだ。