終戦記念日に思う 語り継ぐ実践を通して

大本営発表で勝利!確信して若者を戦場に送り出した満州事変、日中戦争、太平洋戦争。310万人の戦争犠牲者を出した日本。果ては一億玉砕と国民を死へと導いた 軍部、戦時教育の教訓は活きているのか。

終戦記念日は果たしてそうなのか。今は世界戦争前夜の様相を報道機関も流している。だが、日本国民にその危機感は無いに等しい。コロナ禍でも観光経済政策に目を囚われウクライナや周辺国、中国とロシアの合同訓練も開始されようとしている。それはロシアがウクライナ進行前に訓練と称して軍隊を移動結集していたのと変わらない。要するにいつでも台湾有事も起こりうるし、与那国や波照間 南西諸島が中国から、そして北方領土から、北海道へとロシアの手がのびることを意図的に画策、日本をも威嚇している。

そんな時、日本政府は専守防衛という9条を無くし攻撃のできる国づくりを憲法改革でやろうとしている。

人道的な支援こそ世界が求めている時代に、あの忌まわしい第二次世界大戦の前夜ともいえる軍事力の増強に世界が走っていく。目には目を!棒を持てば石を投げる、刀で、槍で、鉄砲で・・・・世界破滅の道筋を政治家も「防衛」という名の先制攻撃を目論んでいる。危ない!

戦争体験者の声は8月だけのことなのか?1944年9月25日疎開船「武州丸」からのメッセージは聞こえないのか。子ども老人、婦女子が犠牲になった戦争の体験は忘れられ、ゲーム感覚の政治家が世界の平和を願う、貧しくも幸福な人々の「今」を破壊し、私利私欲のため戦争に走る。

一発のミサイルが2100万円、これでどれだけのミルクが買えて、何万人の子どもたちの命が救えるのだ。

軍需産業は栄え、武器商人は豪邸にくつろぐ。貧しい人々は貧困ゆえに、イラク戦争の州兵が奨学金ほしさに戦地に向かったように、いつか経済格差によって日本の貧しい若者は食うため学びの奨学金ほしさに、殺人者になる。生きるため、国の為?今のロシア風がやって来る。

戦前の今、考えてほしい。「命ど 宝」私の妻は昭和の時代、幼い子供二人に言っていたのを思い出す。「戦争になったら足の一本を切り落としてでも兵隊にやらない」と。

武州丸の犠牲者148名と内77名の子どもたちの御霊に「再び子どもたちを戦場に送らない」と約束し、今年も慰霊の夕べを9月24日午後4時から なごみの岬で実施します。

 

夏休み平和学習 犬田布中学校

今は戦後、戦時中、戦前?

日本は太平洋戦争終戦から戦後、といっても良い。中国や北朝鮮の軍拡、そしてロシアのウクライナ侵略、ミャンマーの軍事政権などを思うと戦時中であり一触即発の戦前ともいえる。ロシアの状況を見ると日本の戦前を思わせる。自国の貧困から満州へ渡り、開拓団と称して満州の人々の土地を奪う。それとは知らず満州へ渡る日本国民だった。日中戦争が勃発、侵略国家となり三国同盟に活路を求めたが米英はそれを許さず経済制裁。ここまでくると今のロシアと似ている。戦争はいつの時代も男社会、政治家が起こす、が犠牲者は老幼婦女子である。

学童疎開船の対馬丸・武州丸の悲劇から78年だ。記憶に新しい。悲劇を忘れず伝えたい。

沖縄の鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊や少年たちの特攻隊、学徒出陣と若い青少年の夢と希望が絶たれる。誰のため?何のため?命を捨てるのか。戦争はお互いの「正義」の戦いである。言い分がある、そして報復は新たな報復を呼ぶ。憎しみの連鎖を絶つことができるのか?これこそが政治家の仕事。国民の弱者である、貧しい、学歴の低い人たちが前線に送られる。イラク戦争でもアメリカの州兵隊が奨学資金ほしさに出兵した。

今の政治家は、生々しい戦場も痛みも知らない。自分たちが戦場、前線に立つはずはない、と信じている。外交努力で共存共栄の思いを怠けていると、いつのまにか恨み、嫉妬を買う。独裁者を出してはいけない。ぬるま湯から抜け出して、若者たちの未来・夢のために国際協力、努力をすべきだ。

少なくともこのどさくさに紛れて軍事力増強、核兵器持つべしなどと右傾化し、元来た道に戻らないでほしい。再び子どもたちを戦場に送らない!大人であってほしい。

伊仙町から下原遺跡まで フィールドワーク

知らなければ伝えることはできない。学習すること、学び直したり生涯が「学ぶ」ことだと思っている。知り伝えるために独学もする、専門家の声も聞く。そして伝える、繰り返す。島の歴史「光と陰」斉彬と奄美、犬田布騒動記念碑の前で一揆と騒動とは?西郷のいくつもの顔。世界自然遺産、登録の意義。

糸木名小学校 タマシモロイタイム兼家庭教育学級

糸木名小学校のタマシモロイタイムが昨年に引き続き実施された。今回は「三味線に触れてみよう!」

全校児童と家庭教育学級のお母さんたちでした。調弦 20本余りの三味線を終え、5,6年生に先ず指導。

カエルの歌でドレミの奏法とポジション。指、バチ、姿勢等々。5名の児童はすぐマスター。次いで徳之島の子守歌を頑張った。

全自動がそろったところで、三味線の基本を語り。ドレミのポジション。しばらくして5、6年生が低学年に個別指導。異年齢の子どもたちが繋がるチャンス、やさしく教える先輩に低学年の子供は嬉しそう。

さて、5,6年生の模範演奏だ。わずか4,50分で2曲演奏を実現。

カエルの歌は一番を演奏、2番はみんなで歌った。徳之島の子守歌演奏。拍手喝采!

最後は六調、ワイド節を踊った。三味線に親しみ、慣れ、いつか再び手にして伝統をつなぐ子どもたちが現れることを期待して、3時間に及ぶ郷土教育の伝承活動を終えた。

遺跡を訪ねて本川から尾母集落へ 広報北区 6,7月号

駐在員・区長(自治公民館長)として子ども会から高齢者までのニーズを理解し、活動を推進していく役割を担っている。コーディネーターとして、金子みすゞの「みんな違ってみんないい!」の志で歩んでいる。

昭和50年沖永良部島 知名町上城小学校赴任当時から、青年団・子ども会・西目スポーツ少年団設立など社会教育5時から男でやって来て、今そのゴール近くに来ていると思っている。そこから見る地域は、子どもの夢や未来を見渡しているだろうか?青年のエネルギーを発散させ、生き甲斐を持った日々を送っているだろうか、高齢者は夢と希望をもって「生涯青春」を満喫しているだろうか。それらの環境を準備し整えているだろうか、行政は?地域のリーダーは?。自問自答しながら歩む。

歴史もきちんと把握しなくては、先史時代、古代からの変遷。狩猟採集(貝塚)時代から島はどう変わったか。今日、尾母での発掘現場を見て来た。カムィヤキの遺物が出土している。出来具合は粗雑で焼きが甘く赤土部分が残っている。立派な完成品は島外へ交易品として出ているはずだ。そのうち居住地跡もわかると思う。そこから海を下っていくと本川貝塚、海へとつながる。貝や追い込み漁をした海人(ウミンチュ)が山の幸、狩猟も可能な台地に居住地を求め登ってきたところが「尾母」集落、という道筋が見える。今度フィールドワークで案内したい。

6月29日 何の日?

六年前のブログから思う。
戦争が始まった今、自らに問いかけた「今は戦後?それとも戦前?」その答えがロシアという大国の侵略戦争という現実問題になった。
だが、私たちはTV慣れし、現実とは思えない参事を前に為す術もなく、日常の平和を「コロナ禍」で生きている。この平和な生活が一瞬にして消えた12.8や島の6.29、10.10、結果8.6.8.9の惨状を経て8.15を迎えた過去の学び直しが必然的にやって来たのだ。
 守ってきた「平和」の城がこんなに、もろかったのか、ということを知った。
戦後 日教組は教員のほぼ100%が加入し「子どもたちを再び戦場に送るな!」と「民主教育の実践」を訴えて来た。その加入率が20%を切る時代に、過去の日本の軍国主義、「戦争、侵略」を他国ロシアが行っている。「歴史は繰り返される」「過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる」、である。
2016年 6月 29日 (水)

富山丸 慰霊の日

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鹿浦小学校 旧奉安殿
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弾痕 人の命を狙った機銃掃射

NHK朝のラジオ番組で 「今日は何の日」というのがあるが。今日は1944年6月29日 7時30分頃 戦時中の奄美近海、徳之島 亀徳沖のわずか3kmで「輸送船 富山丸」が魚雷攻撃で轟沈した。3700余名の若者があっという間に海中に没し、海に飛び込み陸に向かって泳いだ人たちも、ガソリンが引火し、火の海で焼死。浜辺には200体もの兵士が打ち上げられ、砂浜で火葬された。なごみの岬。今日も暑い日になりそうだ。72年前の今頃 地獄と化した亀徳沖の悲惨な、悲痛なシマンチュの顔は、想像もできない。神の国日本が負けるはずがない。勇壮な船団が南下する光景に胸躍らせた人々が目の当たりにした船団の撃沈模様。奄美近海はすでに制空権、制海権を失っていた。にもかかわらずそれから1年以上過ぎた8月15日の終戦。沖縄も奄美も本土防衛の捨て石であったことがわかる。再びこどもたちを戦場に送らない!その思いが高齢化によって遠ざかっていく。ゲーム感覚のTV放映によって命の重たさが軽く、流される(放映)今は戦後なのか?それとも戦前?

馬毛島とラプコン《radar approach control》を考える

2010年の徳之島への米軍基地移設反対闘争の教訓から、伝えたい

《radar approach control》レーダー進入管制。 地上誘導着陸方式によるもので、空港監視レーダーと精測進入レーダーを用い、無線電話により操縦士に指示を与えて着陸させる。

嘉手納ラプコンは、嘉手納基地から半径90キロ、高さ6000メートルの空域と、久米島空港の半径55キロ、高さ1500メートルの空域の進入管制業務を嘉手納基地のレーダーで米軍が実施してきました。

那覇空港から離着陸する民間機は、嘉手納基地に離着陸する米軍機と航路が重なるため、約10キロの間、高度300メートルの低空で飛行するという「高度制限」を義務付けられています。

こうした米軍優先により、ニアミス(異常接近)の発生、低空飛行による乱気流発生時でのトラブルの可能性が指摘され、民間機の安全優先、燃料負担の軽減などから嘉手納ラプコンの早期返還が求められていました。

国土交通省は、返還後は地上と上空の管制を日本側で行うため、米軍機の飛行状況が早めに把握でき、米軍機の状況によっては高度制限せずにスムーズな着陸・上昇が可能としています。


変わらぬ米軍優先

嘉手納ラプコンの日本への返還は「空の主権回復」、民間航空の安全確保という点で前進です。

しかし全面返還ではありません。国土交通省も認めるように高度制限の“緩和”は、あくまで嘉手納基地や普天間基地を離着陸する米軍機の飛行計画が予定されていない場合です。米軍機の飛行や作戦計画に支障のない範囲が前提なのです。

馬毛島でのタッチアンドゴー、離着陸訓練は「ラプコン」という、空域の制限下で行われる。であれば種子島、屋久島方面から国内線はおのずと狭い空域しか運航できない。わが物顔で制空権をもって轟音を轟かせても文句は言えない。2010年まで那覇空港がわずか高度300mしか許されてなかったことを知っているのだろうか。

 

熊本城の今~孫の運動会 エイサー

昨年の夏は子や孫に「くも膜下出血」で心配かけた。コロナ禍のため奄美県病院まで来てもラインで語るだけ。手術後に会うこともかなわず熊本鹿児島へ帰った子や孫たちだった。その後の経過、元気な姿を見てもらいたいと熊本の運動会応援に合わせて行った。孫たちは二人ともばあばの姿をみたとたん、顔を真っ赤にして号泣、抱きついた。

花園小学校の運動会は各学年2種目の午前中実施。孫は開会宣言から、応援団など活躍。さらに驚いたのは なんと、熊本の地で エイサー「年中口説」が6年生の全体演技であった。沖縄の伝統芸能が全国に発信され、愛好者がいることを知る。

このような平和な日本とウクライナの現実を見たとき、今の時代、子や孫の時代、平和であってほしい、と強く願う。

6年前 「今は戦後か、戦前か?」東天城中 フィールドワークを顧みる

2016年 5月 19日 (木)

東天城中フィールドワーク

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南部は焦げ茶色、北部は黒い
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 恒例の東天城中学校1年生のフィールドワークの案内。5年目になるだろうか、取り組みに感謝である。オリエンテーションではエコツーリズムについて語った。自然環境と歴史、文化についての体験型観光母間騒動について母間正直と一体的な正義感が成した一揆であること、これまでタブーとされた「お上への抵抗の歴史」がやっと消え、記念碑が建立される時代になった。ちなみに今年は母間騒動200年の節目の年だ。当部のアガリマタイジュンやオキナワウラジロガシ周辺は観光客のために整備されていた。ただ悲しいかな清流の水たまりがあってハグロトンボが遊ぶ、水たまりは無残にも石が整然と敷き詰められてしまった。何かができるとき、何かが失われていく浅間陸軍飛行場滑走路跡や防空壕。犬田布騒動記念碑。民衆の団結、同胞を見捨てない命を賭しての抵抗。遠島中でも沖縄民謡踊りを習得して徳之島に琉球音楽を伝えた安寿珠。メランジュでは島の成り立ち、アマミノクロウサギと同様、1億年の時の流れの中で海底7000mから浮かび出たメランジュ。平和教育は写真を示しながら実施。鹿浦小学校の機銃掃射による旧奉安殿の弾丸痕跡。人が人を殺めようとした痕跡である。今の時代が戦後なのか、戦前であってほしくない。平和の構築を、敵対しないグローバルな平和共存を訴えた。

6年前の旧ブログから引き出している。
「今の時代が戦後か、戦前か?」と自らに問うのだが、世界の平和外交の失敗が浮き彫りになり、その背景にエネルギー、食糧問題が複雑にからみあい、一枚岩になれないもどかさがある。
時代は繰り返される、その予想、想定をするのが政治家であり、国民「私たち」である。
力による現状変更は許されない!もちろんだが、戦争犠牲者のウクライナ、ロシア兵も人間「命」。あまりにも映像で慣れてしまう自分が怖い。北朝鮮の拉致問題もかすんでしまう。マスコミも人道上の一人一人の「命」を強く、大事に取り扱うべきだ。悲惨なヒロシマ・ナガサキと同じようにTVは事実をつたえてほしい。今こそ平和教育の必要性を国民に訴えるべきで、「目には目を」の防衛の名の下で軍事予算の増だけを政府は言ううべきでない。平和外交「食料」「エネルギー」問題で世界中の共存を訴えたい。

闘牛に集う、旧友 「闘牛は文化だね!」

2015年 5月 4日 (月)

闘牛は文化だ!

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雄姿に期待が高まる!
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同級生!
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沖縄から応援に!
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子々孫々 思いは受け継がれる

「闘牛は文化だ!」
昭和35年生まれ「14歳の時に沖縄に移住した」、あれから40年!息子夫婦と奄美大島を観光した帰りに「同級生が闘牛大会でチャンピオン防衛だって、降りよう!」と下船した。
可愛い赤ちゃんを連れた新婚夫婦。
 4人の同級生の顔だ。あれから40年!同級生は「ジャイアン!」などとあだ名で呼び合う。ほほえましい!そしておばあちゃんは「ごちそうをファミリーで手分けして優勝祝いをしている」という。
知人友人親戚が勝ち祝いで押しかける。
 笑顔笑顔、そして笑顔。
幸福度世界一の、笑顔が満ちあふれている。これはその中にいないと感じられない。共有、共感すること。今の時代、都会にこんな場はありません。応援した人々が何人でも押しかけ飲んで食べて、そして一体感を持つことのできる「場」。
 「老若男女」という言葉、「老人と子どものふれあい」。実践する場が徳之島にはあります。思いを共有し連帯し、感動を共にする。また勝敗の結果を真摯に受け止める度量。
現代版「闘牛文化」だと思う。

 2022年5月20日
追加 関わること、悲喜を共有することが文化でしょう!一歩踏み出さないとわからない、見えない。文化とは長年の蓄積、それは有形無形いずれにしてもだ。「得とらゆりむ、名取れ」(利益よりも名を遺せ)古老たちは一族の名誉、絆を大事に富める人は闘牛を飼い、「00牛」と名前を前面に出して、共に闘った。闘牛大会は遠方(町をまたいで)ではヤドヤと言われる民家で世話になった。その一宿一飯の義理人情は子や孫までも繋がった。
単に「闘牛は文化」という訳ではない、その当時の環境(農耕文化とオス牛の役割=農畜併合)が醸し出したのが「闘牛文化」だ。方言が絶滅寸前だが、闘牛愛好者は「方言」という文化でも繋がっている。