今年4月転勤した清川さんが久しぶりに帰ってきました。今年も豊作で歓迎会三味線演奏で盛り上がっていると写真撮影をするお客さんや仲間に入りたいと兵庫県西宮 株式会社メックテクニカ松本正人夫妻も加わり楽しい宴でした。三味線・島歌が人を魅了するんですね。うれしいです。
第7回地区対抗駅伝大会(平成の初期は駅伝大会が年代別で行われていた~私も神之嶺小入り口県道から当時のチップ工場・今のアートサンポウ前中継地点の坂を走った~が道路工事で中断スポーツ大会へ移行、再び小中高青年中心に復活)は11月10日12時花徳小学校で開会式が行われた。
必勝を期して記念撮影。惜しくも上位入賞はできなかったが年間通して中距離を走っていない子どもたちです。善戦健闘しました。駅伝は己との戦いです。孤独です。しかし走った人にしか味わえない達成感と次頑張ろうという闘志が漲るスポーツです。私も沖永良部フリージヤマラソンでは子どもと5キロ・10キロコースを走ったり楽しみました。青年時代から亀津中学校の持久走大会(9年間で7回走った)48歳まで中学生と競いました。コース、呼吸の仕方・・・選手の皆さん、お疲れ様でした。
スポーツでその後も卓球部では2キロ走ってから卓球練習に入りました。メンタルの持久力はやはり筋持久力とバランスよくなければ、との思いでした。県大会優勝(1999年度伊仙中女子)・全国選抜大会出場は毎日の2キロノルマからでした。
闘牛をその本能と興行に分けて歴史を見ると
鳥獣戯画国宝にも8世紀ごろから京都で角合わせをする牛が描かれている。
また農耕牛として見ると、河原で農耕の疲れをいやしながら牛を浴びせているが
子どもたちは角合わせをさせて楽しんだと聞く。
薩摩藩制時代、代官が奄美島の娯楽を知って(8月15日、9月9日など遊興日)特別席を
設けたりして観戦する様は名越左源太「南島雑話の世界」からも見えるし、「徳之島事情」
の挿絵でもそうだ。このころは入場料は取らず、勝った「名誉」であった。前原口説も一族、集落の誇りが歌われている。
戦後、各集落の広場で幼いころ角合わせを見たものだ。勝ち負けでなく、楽しみだった。
昭和34,5
年ごろは道のわきは
トタンで闘牛場を見せまいと覆い入場料を取っていた。子どもたちは隠れて応援団に扮して入場していた。
今は小学生までは無料。
興行として成り立ったのは戦後1960年ごろからではないか。戦後10年たって生活のゆとりも出来たころ。その頃は豪農、大富豪と言われる人たちが自分の名前を「000牛」として戦わせた。名誉である。島の数え歌に今もある「得とらゆりも名とれよ死んだる後にも名は残る」である。
島民劇「この町で」を鑑賞した。
久しぶりに帰ってきた娘が泥酔して、彼氏がいることを打ちあける。父親(北区の保久幸仁さん)は、可愛い娘を離したくない。
苦悩する父親だが周りの青年家族がサプライズ結婚へ。おじいとおばあ。持病をもつばあちゃんが倒れる。過去の思い出。
出会い、別れ、井之川の夏目おどり。我が家で死を迎える~孫の誕生。ミュージカル風な演出、シマンチュが演じる。赤土文化が戻ってきた。戦後米軍統治下の中で芽生え育った赤土文化。それは各集落(シマ)にあった。
金をかけず、島の青年たちが時代劇や犬田布騒動を演じ「日本復帰」さえも勝ち取った、不屈の明星の劇団が島々にあったと聞く。
島民劇を「わきゃシマ劇」に育てたいものだ。「わきゃシマ物語」として。
質疑応答がなされた。世界自然遺産よりももっと身近な問題がある。
災害時の要支援者に対する施策や大瀬川の氾濫。写真のような草を台風襲来まえに
河川の掃除を毎年してほしいこと。台風時、津波時の避難経路と坂へ手すりを設置要望。松くい虫の枯れ木除去など現在の対応などだった。
区民はいささかがっかりして「講話」を聞いた気分だったそうだ。そして外来語が飛び交うので「意味不明」も。ソシエティは社会の意味だが日本語でよいのでは。ソシエティ5、など1~4までを日本語で説明を1は狩猟社会2は農耕社会3は産業革命4は情報社会5は技術革新を利用した社会(AIなど)と。グローバルも地球規模などと。農家、農業のシマンチュに役所言葉は理解できない。
ある人は「議会と間違えている、課長クラスが答える時間が長い、もっと地域の声を吸い上げてほしかった」。1時間半で終了。手を挙げたが時間切れで終了。国会のごとし。
10月10日「戦争は人の心の中に生まれる、心の中に平和の砦を!」1944年、75年前今日という日は那覇市が大空襲を受け、奄美 徳之島も初空襲の日でした。6年生は知覧の特攻基地など鹿児島への修学旅行の事前学習でした。沖縄、奄美の戦争が本土防衛であったことを子どもたちは知らないといけない。本土から沖縄へ反戦平和の学習でやってくる時、奄美が沖縄を知らないといけない。対馬丸・武州丸疎開船。戦争はかっこいいものではありません。沖縄の地上戦・・・。口減らし・足手まといで島を出された老人・婦人・子供たち。「疎開」という名目で制海権も制空権も米軍の手にある中を、出航し犠牲となった事。「防空壕は島にあったんですか?」「各家庭、庭の大木、ガジュマルや石垣の下にあったんです。亀津小学校も体育館の傍にまだありますね」「どんな人が疎開者だったんですか」「老人、子供、婦人戦力にならない人たちです。生かすというより、口減らしですね。7000人の奄美守備隊に大島郡内の飛行場建設などに動員された人々の食糧確保(1万1500人ほど)もあります。」