井之川中1年フィールドワーク案内

29日これまで10数年続く井之川中学校1年生のフィールドワークを実施した。少なくとも22歳に達している訳だ。「故郷を誇れる子どもたちの育成」を胸に動いている。特に疎開船武州丸への思いを平和教育推進の原動力として語ってきた。自然や歴史、考古学から得られた新しい発見も常に知らせてきた。

子どもたちとともに学ぶ、という姿勢で関わってきた。熱い平和教育への思いを防空壕で、なごみの岬で、特攻隊記念碑ほかで語り伝えてきた。その思いは時代(昭和・平成・令和)、年齢を超えて連綿と伝え、平和を構築する子どもたちへと伝わっていくことでしょう。

年金友の会県知事あいさつ24日Gゴルフゴルフ遊歩記

年金友の会グラウンドゴルフ大会が天城町総合グラウンドであった。塩田塩田県知事のあいさつがあった。「離島のため暮らしを守るために県政はどうあるべきか持ち帰りたい」。私は参加できるものなら離島航路港のボーディングブリッジ設置を強く要望したかったが、新聞を見て意見が出て良かった。

差別のない鹿児島条例ができたものの、大島(名瀬)は作り返すのに全くない離島。

船の急なタラップを重い荷物で登ることは体験しないとわからない。

グラウンドゴルフ2ゲーム終了後、帰路に立つがついつい、寄り道。29日は井之川中学校1年生の史跡巡り案内だ。

大瀬川の清掃ゴミ拾い 子ども会、育成会

子ども会、育成会は大瀬川の清掃ゴミ拾いをした

環境教育を通して協同意識が高まる取り組みでした。今朝は、天候や参加者がどのくらいか、飲み物のことで4時半に起床。ラジオ体操のあと集落内のボランティア清掃見回りと元気度アップポイントシール配布

台風後わずか40日程でゴミが捨てられている実態を確認し、生態系を守るために、継続した取り組みの必要性を訴えた

 

 

 

 

10数年ぶりの鍾乳洞目手久、検福ー入口が様変わり

昨日午前8時45分頃から10数年ぶりに東目手久鍾乳洞を訪ねた。当時は道路脇からきび畑の畦を横断して水路伝いに行けばたどり着けたが、今回はさらに上まで登って右側の雑木林、竹林を経て小川に到着、ここを登っていった。当時の水路には木々が生え覆い尽くしていた。もはや10年過ぎると自然の猛威繁殖には抵抗できないのだ。更に台風の跡で、木々は倒れ大木も倒伏手のつけようがない。やっと通れるようにのこぎりで切って進む。当時楽々に案内した私がとまどうのだから、驚きとしか言いようがない。美山保さん達は昨年ここに入って時間経過で騒動し、本人も救急車で運ばれた。それとは知らず私はその本人に案内を頼んだ訳だ。申し訳ない。その後、上に抜けるという場所を案内してもらったが、そこは違法「ゴミ捨て場」と化していた。

美山さんの案内で目手久ダムを初めて知った。渡り鳥も来るという「ため池」だ。

権福の銀竜洞近くの手つかずの鍾乳洞は再発見に時間を要したが記憶をたどって見つけた。当時は「谷間であるため開発の手から逃れている」と説明した鍾乳洞だ。

地上部は赤土畑が広がる。広大な農地だ。近くまで開発の手が伸び、もはや地下部が赤土にまみれるのは時間の問題だ。

おそらくすでに、鍾乳石はつららも赤土で染まっていることだろう。入り口の写真だけ撮って思い出を胸に「永遠なれ、」と別れを告げた。

 

朝日新聞 掲載「疎開船武州丸悲劇の航海」

14年目の疎開船武州丸平和の夕べが朝日新聞に掲載された。

日本学術会議の任命拒否をする菅総理だが、任命されなかった人は全て「政権側にもの申す、」人たちだ。マイノリティ、少数派の意見を無視するより、圧殺する暴挙。今の香港を見るようだ。

「戦争はいつの間にかやってきた」と戦争経験者は語る。黙らされ、黙っていると無抵抗となり「若者が再び戦場へ向かう」日がやってくる。

徳之島「武州丸の悲劇」は兵隊だけでなく国民皆が犠牲者になることを伝えている。

平和を語る、平和を願う、平和を築くのは今の若者である、そのことを大人は責務とすべきだろう。

私は戦後生まれだが「聞いて、知って、伝える」ことはできる。なごみの岬~平和の碑、訪ねてほしい。刻印された富山丸のこと、3700余名の死者。家族、幼いこども、妻がいたことを。

躍動  亀津小学校運動会、中学校 コロナ禍に負けず

徳之島で初のコロナウイルス感染者が出た。

被害者を差別したりしてはいけない。何時でもどこでも誰でも感染の危機にある、という認識が必要だ。

しかしながら、感染者のいる危険な地域に行くときは、用心すべきだろう。会社員・公務員気をつけよう!我慢するときは我慢しよう!

ラジオでも言っていました「個人の問題ではあるが、感染すると家族・地域(徳之島全域)に大きな問題が生じる」。

スポーツの自粛、不要不急の外出控えで商店街や飲食店への影響。マイナス面での経済に及ぼす影響は計り知れない。グラウンドゴルフ大会もなくなった。高齢者の足腰が衰え、体力も心配(自分もだが)

できることをしよう、ウォーキングや5,6人でグラウンドゴルフ。

ウイズコロナ、コロナと共に生きる、ことです。

武州丸慰霊の夕べ

 

「徳之島でコロナウイルス感染者出ました。」ニュースの翌日でしたがマスク着用で31名の参加者。平和ネットワークは日常の支え合い協力共同から生まれると感じた今日の慰霊の夕べでした。

冒頭あいさつで「コロナ感染者は被害者で有り差別偏見をなくすること、人種、宗教、あらゆる違いを認めることで戦争はなくなる。」「戦争という人災はいつの間にかやってくる。人権侵害の最たるもの。」「今なき犠牲者の声に耳を傾けて、・・・故人 澤津橋務さんの録音メッセージ」「子どもから高齢者が慰霊の夕べに参加すること。平和は与えられるものではない。若者に平和を構築することを望む。そのためには高齢者は体験、聞き語りをするべき」「一瞬にして夢・希望を絶たれた人たちの声なき声をつたえて」とあいさつした。

昨日、初のコロナ感染者が天城町で出たことで、学校関係の有志には参加を見送った人が多かった。日頃から平和教育を推進されている「武州丸と平和を考える会」の方々には申し訳ありませんでした。今回は鹿児島朝日新聞社記者も来島し取材していただきました。148名の無念さを多くの方々に知ってもらうことはありがたく「再びこどもたちを戦場に送るな、」の実践です。

亀津中学生の北山愛心さんは『私たちは犠牲になった人たちから『平和のバトン』を受け取りました、戦争の悲惨さや愚かさを学び、平和な世の中に感謝し戦争をしてはならないことを、世界中の人と共有し、語り継ぐことを誓います」と誓いの言葉を報告した

参加者、上原トヨ子さんは「戦争に行った兵隊さんも、疎開した人も同じ一つの命です。武州丸で犠牲となった人たちへの思いを共有したい、」と知って伝えたい強い思いを語ってくれました。

疎開船武州丸慰霊の夕べご案内

 

川辺へ2008年5月22日訪問~ 2018年4月25日逝去

澤津橋 務さんは約10年後に他界した。

26日 土曜日 夕方4時 なごみの岬慰霊の夕べ

同じ事の繰り返しだが、誰かがしなくては。2006年故名城秀時遺族会長と出会い語り継ぐことを約束した。あれから14年。その間に米軍基地移設反対闘争もあった。

歴史は繰り返される恐れがある。

過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる、某大統領の声を数十年思いだし平和教育を推進してきた。ユネスコ憲章にある「戦争は人の心の中に生まれる、人の心に平和の砦を築かなければならない」

明後日26日夕方4時から慰霊の夕べ。未来のこどもたちにメッセージを。

戦争を体験していなくても、聞き、知って伝えることはできる。

故人 澤津橋務さんの平和のメッセージ(録音)を伝えたい。

 

1944年9月25日 何の日?疎開船「武州丸」慰霊の日が近づく

9月26日(土)夕方4時 なごみの岬 武州丸慰霊碑 にて「武州丸と平和を考える会」・徳之島ユネスコ協会共催

再びこどもたちを戦場に送らない!戦争は人権侵害の最たるもの!

徳之島1万人集会、1万4000枚のチラシが配られ1万5千人、主催者発表であった米軍基地移設反対集会。

平和運動に加わり、人権同和教育に関わり「差別・偏見のない社会」運動をこれまで不特定多数の仲間達と共に取り組んできた。10年一昔、と言うが当時の高齢者(80代)は戦争体験者で有り、痛ましさを知った高齢者であった。今は歩行困難な90代となった。今の80代は戦時中に生まれ育ったが戦場を知らず、戦争の実態は知らない。そして70代前半は戦後生まれだ。

「戦争を知らないこどもたち」を歌った。反戦歌だ。今はそのような歌は一曲もない。若者は歌すら知らない。平和~だが、コロナは世界中の開発途上国で病気が蔓延している。

忘れた頃にやってくる、のが災害や戦争です。

富裕層には武器商人もいます。武器輸出国となった日本も約1兆円の商人ですね。

100機以上のF35戦闘機、1機 120億円とか。1兆円以上、アメリカ戦闘機を日本は買うそうです。殺人兵器~平和維持の武器だそうです。軍縮は軍拡へ、人間は富裕者が生き残り貧困者は戦場へ。

花はどこへ行った

娘達は花を摘む、墓の周りは花が一杯。娘達は花を若者へ、若者は戦場へ。今若者は墓の中、墓の周りは花で一杯。娘達は花を摘む~エンドレス 悲しみは繰り返されるのか。

戦争の悲惨さを、風化させない取り組みが必要です!

ユネスコ憲章 「戦争は人の心の中に生まれる。人の心の中に平和のとりでを」

SDGS 持続可能な開発目標 4「教育」世界寺小屋運動 をユネスコは展開しています。徳之島ユネスコ協会の一員として継続していきます。

武州丸慰霊の夕べは2006年から始めました。

遺族の高齢化、遺族会解散によって「つなぐ」ことを決意して仲間達と取り組んできました。

「共に取り組む」参加してみませんか!子や孫、未来のために!