イモ植え 準備から

台風やコロナ感染拡大のため延び延びになっていたが、28日草刈り、耕しを青年部と福岡照男さんによって準備作業を終えた。29日日曜日は阿権の義弟が芋苗を準備2種類を5時から13名で植え終わった。

潅水は毎日当番制で行う。雨が降らないので根付くまで一週間は必要だろう。

無言で全員マスク、黙々と進めた。

ゼローム神父と和光園

和光トンネル手前を右に曲がる。県立大島病院に向かって歩く、妻が入院中のいつものコースだ。くも膜下出血で緊急、自衛隊ヘリで大島病院に搬送、幸い手術も成功快復に向かっています。毎日13000歩ほど歩くのが日課。

和光トンネル開通のあと、有屋の和光園へと続く長いトンネルを歩きました。徳之島出身者のkさんをたずねてです 差別と偏見の隔離施設だった昭和60年当時知り合った人です。

90歳過ぎて帰って来たのは遺骨となってでした。kさんとの関わりは省略しますが古田町マリア教会に和光園の解放、出産や子どもの家創設他元ハンセン病患者の人権を守り差別と偏見を無くする運動に一生を尽くしたゼローム神父の胸像があります。いつも、胸を打たれ感謝と自分を省みる場所になっています。

名瀬だより 丸田南里

名瀬にいます 名瀬小学校の近くには丸田南里の墓 1851年うまれ、私は1951年生まれ、関係ないですが奄美黒糖の自由売買、勝手世騒動 運動のリーダーでず 明治10年西郷隆盛の西南戦争で請願に鹿児島へ向かった奄美の55名は投獄され、西南戦争に従軍した31名は田原坂で戦死 ー後は省略

西郷隆盛像の偉人伝の裏には奄美人の頼って裏切られた怨念もあるのでは

小学校の敷地が大蔵省の表示もあった すごい発見でした

 

養蚕技術の伝達技師として徳之島へ

奄美市浦上農業試験場で養蚕技術をマスターして与論島へ 与論島の養蚕衰退のため徳之島 当時東天城村で養蚕指導に従事 徳之島町町制施工後、花徳支所で勤務

忠義さんは昭和8年生まれです

和泊町喜美留出身、和泊中学校勤務の7年間私はご兄弟と親しくさせていただきました

大島地区ソフトテニス大会に参加する賢裕さんと会場で会いました

縁 あって40年ぶりにお兄さんと私は知り合えたのです。徳之島の養蚕指導技術者 歴史を作った人です

♪おまえ蚕(こ)を飼え 紬織れ♪徳之島小唄と養蚕業が盛んであった、ことが理解できますね。シマの桑の木の多いこと。温故知新です。

糸木名小学校タマシモロイタイム

7月10日土曜日 タマシモロイタイム シマウタの背景、消滅の危機にある島口を唄で伝えていく取り組みが必要です。

標準化された日本語、この時代島口を継承するのはかなり厳しい 経験から島口劇は効果大、そして教訓や生活を綴るシマウタは貴重です その背景を伝えていくことですね。島唄や三味線を指導する際にこれまでの諸先輩は数字と時にABCを付け加えて独自の楽譜を考案していました。123を開放弦として45678ABCDなど。これでは復習予習ができません。

私はこれをそどソを開放弦として五線譜で指導しています。CDからの採譜もします。

五年生の男子はコロナ禍の中ですが一曲を1時間でマスターするほどです。

糸木名小学校の児童の皆さんもワイド節を踊ってくれました。島の文化継承は楽しいシマウタ、踊りだと思います。何でも楽しくないと長続きしません。そして賞賛し場を作ることです。

子どもも大人も練習の成果を活かすには「場」発表の場と拍手が一番ですね。

 

 

島唄とその背景 面縄中学校6月12日

シマ唄とは島々または集落集落の唄を指す。それは独自のアイデンティティの発信で有り、同調した流行歌ではない。と言われている。例を挙げると朝戸屋ユンタは徳之島ではチンダラ節として替え歌が歌われている、それでいて根付いている。盗作ともいわれず愛されている。

「唄は旅する」 与那国小唄が亀津音頭に、与論小唄が19の春に、花徳枕節がエラブ百合の花に編曲され歌詞が新たに付け加えられ定着している。

「こども」「行事唄」「作業唄」「祝い唄」等々 人々の生活と密着していた。教訓歌もある。

シマ唄から心の文化を学ぶ。奄美の歴史を知る、ことばを知る。7月は糸木名小学校で保護者を含めてシマ唄の紹介です。数え歌、てぃんさぐぬはな、などその意味を語りながら歴史を生活を語ります。

大瀬川に落とした1年生帽子の捕獲に思わぬ早朝ランニング!

今朝、早朝いつものように亀津小学校沿いの清掃をし、校長先生と朝の挨拶ほか児童の交通安全について立ち話をした。しばらくして校長から「釣り竿がありませんか!」と興奮した声で電話「どうしたんですか?魚、うなぎですか?」「いや、登校中に1年生が川をのぞき込んで帽子を落としてしまって、泣いている。なんとかして取ってあげたいが海に向かって流れているので釣り竿で引っかけようと思って・・」「行ってみます」と現地へ。ゆっくり海に向かう黄色い帽子。深さと階段があればずぶ濡れでも、と思ったが階段も無く降りることもできない。近くの民家へいっても何も無い。

急ぎ我が家へ紐とかごを探しに猛ダッシュ?といきたいが膝はがくがく、朝からなぜ走っているの?と言われそうでゆっくりジョギング。途中永吉博昭さんを思いだし「永吉さん!大瀬川に帽子を落として困っている、急いで」とふたりタモと釣り竿もって大捕物へ急行!タモが5~6mあって以外に簡単にゲット。帽子も川の端っこを流れていたためだ。

こども110番だね!泣いていた1年生もきっと笑顔に変わったことでしょう。