西川酒造と南西製糖徳和瀬工場見学 「島を支え、興す産業
」自然史跡巡りでした
足掛け 18年 奄美の地元新聞には毎年掲載された武州丸 慰霊・平和の夕べ。今年は共同通信社の記者も来島、小さな島の少ない(対馬丸と比較して犠牲者の数)疎開者、戦争犠牲者。小さな草の根平和運動として「武州丸と平和を考える会」を全国に発信してくれた。当時、高齢化する遺族の方名城秀時・政野富雄さん(2名)に許しを得て合同慰霊祭を始めた。その後 故 藤村キクさん遺族を知り、訪ねての参列(2014年)もあったが遺族無の武州丸慰霊・平和の夕べが今日まで続いている。徳之島ユネスコ協会の後援、徳之島地区教職員、高齢者クラブ有志の賛同のおかげで犠牲者の声は伝えられている。「広島全国教育研究会」でも報告した。今の子どもたちに「夢・希望を奪った戦争」の悲惨さ無念さ悲しみを伝える営み。コロナ禍でも絶やすことなく実施した。「いつか来た道に」戻ることなく、世界の子どもたちの未来に平和を、足下の平和を構築するための運動は継続される。大人は私利私欲を捨て、平和のバトンをタスキをつなぐ責務がある。その使命を常に持ちたいものだ、と思っている。
「命ど宝」「優しさを武器に変えて」オリンピックでもスポーツ界は相手をリスペクト(尊敬)する時代です。世界平和を目指しましょう「我が家から、地域から、そして世界へと」
11月22日大島地区高等学校社会科教師の研修会で70分講演でした。徳之島を立ち位置とした自然、歴史、戦時中、米軍統治多くを知ってもらいました。米軍統治下の奄美人の 「ナワ行き」「人身売買」復帰運動成し遂げた後の復帰にまつわる沖縄在住奄美人の苦悩差別人身売買まで。
昨日 石井清吉ルーツ訪ねる 子孫 石井明男 親子とお会いしました。大島地区高校社会科研修会に同席の許可をいただきました。
石井清吉さんは母間、亀津、浅間で石井塾を開き三方法運動の精神 自由民権運動を説いています。
当時のエピソード
一八九〇(明治二三)年 亀津村へ転居
大和城山249m 指令所から空港 港を展望 トーチカ 急な階段を上る。今はきれいに整備された階段だが戦時中はどんな思いで険しい山谷を兵隊さんは歩いただろうか。秋利神川から運ばれ作られた堤防、車もなく島人の徴用・郡内から4000名以上の人が集められ馬、人力で築かれた堤防。昭和20年2月与論島を出帆した枕崎水産高校の練習船 開聞丸は撃沈され24名の方が犠牲になった。
特攻隊慰霊碑、忠魂碑、肉弾三勇士 奉安殿いずれも「天皇陛下万歳」の教えで若者が命を捨てた。戦跡を歩いて子どもたちが何を感じたか。グローバルな視点で「戦争反対」を訴え平和を維持してもらいたい。
高校の先生が話した「子どもたちはTVからの映像でも今の戦争は他人事であり反応がない」。
いつか来た道に戻ってはいけない「防空壕の暗闇が安心安全な場所であってはならない。」
中学生の真剣なまなざし、「平和」をきっと守り続けてくれるはずだ、この戦跡巡りは「平和構築の歩み」と自分に言い聞かせている。
大和城山の登山、旧指令所跡に平和の砦を築きたい。
19日郵送で感想文が田中先生から届き、子どもたちの受け止め感性の豊かさに感動、さっそく電話して「感想文のお礼」を伝えた。部分的だが全員の声を紹介する。
「大和城山に登って、頂上まできつかった。指令所その他施設が多くがあったこと知る」「防空壕で暗いところが安全な時代」「暗闇で声を出せなかった沖縄、子供の泣き声 窒息死させた」「恐怖心に立ち向かっていた島の人 強い生命力」「終戦が㏢遅れたら徳之島が攻撃目標だった。」「忠魂碑 特攻隊慰霊碑 肉弾三勇士 死んで祀られ 生き残ったら卑怯者だった」
「昔 徳之島にも戦争があった この事実をしっかり受け止め同じことが繰り返されないよう 学んだことを心に残していきたい」「今まで自分には関係ないことと思っていたが・・・」「戦争に目を背けていたが、忘れてはいけない、向き合って語り継がないといけない」「奉安殿教育勅語と天皇陛下の写真(御真影)」「多くの人の犠牲、忘れない 空港整備に徴された島外の人の犠牲者」「教科書に載ってない学習ができた」
「悲劇が二度とないように平和な社会づくりをしていきたい」「戦争を経験していないから分らないでなく理解し知ることが大事」「戦争のない世界にしていきたい」「次は私たちが残して(伝えて)いきたい」「多くの事学んだ大切な事 家族知人に伝えたい」
今の若者は平和な時代を当たり前と思っている。などというのはおかしいです。知らないから行動に移せないだけです。この子たち島の戦跡を目の当たりにして戦争と平和を体感しました。世界平和をも訴えています。
修学旅行で沖縄をやめて、本土志向(北)だが、世界自然遺産、気候文化を共有し戦争さえも危機一髪(終戦3日後は徳之島アイスバーグ作戦)で回避はできた徳之島。
最近の国際情勢から今また南西諸島が危い状況下にある70%米軍基地存在する沖縄は兄弟島であることを忘れてはいけない。
武州丸慰霊 平和の夕べ 武州丸と平和を考える会 代表 幸多勝弘
武州丸撃沈から80年
1944(昭和19)年9月25日 夜9時 徳之島から疎開する154名は潜水艦 バーベル号の魚雷攻撃によって児童生徒77名を含む148名が帰らぬ人となりました。
米軍が沖縄に上陸し、南西諸島を経て本土攻撃へと近づく1944年9月25日。奄美・徳之島の近海では多くの疎開船対馬丸をはじめとして、多くの貨物船が撃沈されました。しかしこのことは軍事機密とされ、かん口令がしかれていました。
政府は南西諸島から1944年7月に10万人の疎開を閣議決定しました。
学童疎開の主な理由は、将来の日本国を担う小国民とされていたが、実際は奄美守備隊約7000名と飛行場整備のための当時の大島中学校生徒、与論永良部から徴用された人々 およそ11500人の食糧確保であり、戦争時の足手まといとされる老人、子供、女性を島から出すことでした。
都会に行けば 汽車に乗れる、冬は雪合戦もできる 本土への疎開は子どもたちにとっては 遠足や修学旅行のように思えたのです。しかし、制空権も制海権も終戦の1年前からすでにアメリカが掌握し、武州丸が撃沈された3か月前の1944年6月29日には亀徳沖では沖縄へ向かう 輸送船「富山丸」が3700余名の死者を出しており、疎開は死を覚悟しての旅だちでした。
戦時中における離島からの避難は終戦の1年前から絶望的だったのです。
このように考えると、戦争が始まったとき、鹿児島の大隅海峡が特定海域として今でも自由に中国籍の外国船が通過できるのですから、国民保護訓練で離島からの脱出、避難は不可能でしょう。
再び先の大戦と同じく南西諸島は本土防衛のための捨て石とならざるを得ません。
世界情勢をみてみますと 今は、世界中が「戦前」という危機に立たされています。
世界の終末時計は零時45分前からスタートして冷戦後1991年は17分 昨年今年90秒前です。
ロシアのウクライナ侵攻から2年を過ぎ、子どもを含め多くの犠牲者を出しています。
ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエルとパレスチナの戦争はガザ地区でのジェノサイドの様相を呈しています。餓死によって命を失う子どもたちがいます。
時を同じくして日米合同訓練、2023年11月7日 徳之島で訓練~タッチアンドゴー パラシュート降下訓練などは 戦争前夜の様相です。
「戦争は人の心の中で起きます、違いを認めない差別感情や貧富の格差です、私たちは心の中に平和の砦を築かなければならない」
日本全土の軍事化が進行していますが「武力によって現状を変更する」という事は、国際間で平和外交を推し進め、友好的に異文化を理解し、若者が交流することで恨みや差別は解消されるはずです。
「過去に目を閉ざすものは現在に対しても盲目である」「武力で平和は築けない!」
国民が独裁政権を許さない、民主主義国家を目指し、自国ファーストに陥らないこと。
武州丸からのメッセージ 生きていれば、0歳児の幼児は80歳でした。77名の子ども含む148名の御霊に誓いましょう。
「私たちは子どもたちの未来に、平和で夢と希望の持てる社会をつなぎます。」
2024年9月21日